|
|
 |
 お気に入りの人は登録されていません
 参加しているコミュニティはありません


|
 |
 |
 |

[c]2008「グーグーだって猫である」フィルム・コミッティ |
映画 |
2008/09/12 |
| グーグーだって猫である |
| ◎2008日本 |
|
|
|
|
ぴあの今週号に、小泉今日子のインタビューが載っている。
一昨年、急逝した演出家久世光彦からもらった手紙に 「最近は文章でも演技でも、びっくりするくらい巧くなってきました。ただこれ以上巧くなってはいけません。巧さの先には、あまり広い世界はありません」 と書かれてあったそうだ。
やましい思いが芽生えたときはいつも、この言葉が 「降りてきます」 と語っている。 その誠実さが、主人公「麻子」そのもののようにも思える。 恋愛に対する不器用さ、というより忌避感は、裏返せば自意識の強さでもある。どこかで自我の垣根を緩めておかなければ、恋愛が作動しない。
加瀬亮演じる「青自」に抱く思いや、かつての編集者「近藤」との間にほのめかされている関係の純情可憐さ。 「麻子」が自我の垣根をわずかに下げることが出来るのは、不思議な出会いをした「サバ」という猫だけだった。夜の井の頭公園の橋を渡っていく幻想的なシーンは、この映画の白眉だろう。
ふたたびインタビュー記事。 「孤独であることを前提に生きたら、たぶん負けないんだと思う。 (略) 『グーグー』も『トウキョウソナタ』も孤独を寂しいものとして否定的には描いていないんですよね。 (略) 40代の女性がこんな風に現実のなかに居られる映画が出来るというのは、すごく嬉しかったですね。」 主人公「麻子」が富山出身である寓意は、そこに暮らしたことのある人間にとってはわかりやすい。明治の初めころまで、海運の中心地として全国有数の大都会だった富山は、生と死のように東京の鏡像をなしている。 上野樹里演ずる「なおみ」が関西出身であることの寓意については、しかし、関西のイメージは、富山よりはるかにわかりやすいだろう。関西人としては、そのパブリックイメージに迷惑するくらいである。 「なおみ」はまるで浪花節だ。ストレートで熱く、男に媚びない。「麻子」の入院する病院から出てきたあと、「まもる」に手を振る表情は、男が思わず「負けた」と思うほど美しい。 旅立っていく「なおみ」を見送る「麻子」。二人とも孤独を選んだのだろうか。そうではないだろう。自分であることを選ぶときに孤独を懼れなかった。きっとそのことをふたり確認しあったのだろう。
|
 |
◆このレビューを 4人 が参考になったと投票しています ◆このレビューは参考になりましたか? [ はい ] |
|
|
|
 |
 |
 |

[c]2008『ぐるりのこと。』プロデューサーズ |
映画 |
2008/08/10 |
| ぐるりのこと。 |
| ◎2008日本 |
|
|
|
|
新井浩文の、無言の唇の動きから始まる数分間のシーンは、どんな観客にも息を呑む隙すら与えないだろう。 映画が、一人の子供の不在で始まり、別の一人の子供の不在で閉じられることに気づくべきだ。 どちらの子の写真一枚さえ登場しない。観客が登場人物と共有する、その子たちの不在が、そのシーンへと堰を切って流れ込む。
すべてが虚無かもしれない。優しさだけでなく、憎しみや悲しみさえも偽りかもしれない。 しかし、だからこそ人は悲しまなくてはならない。 虚無が決定的だからこそ、それと同じくらい空疎な感情のカタチが必要なのだ。ありふれた悲しみのカタチだからこそ、人の心に入り込むのである。
絵が重要なテーマになっている。 美大卒の男女が出来ちゃった結婚をする。女は出版社に勤め、男は、結婚を期に法廷画家のキャリアをスタートさせた。 妻は「女で苦労するのはわかってるの。でも、私がちゃんとしていれば大丈夫」と、女友達と軽口を飛ばしていた。しかし、一年後、夫婦の間にあったのは、子供の姿ではなく真新しい位牌だった。 やがて、仕事を辞めて心療内科に通うようになっている妻が、台風の夜、ベランダに向いた窓に腰掛けて、尋ねても仕方のないことを夫に問う。 虚無に耐え切れない。悲しみが足りない。悲しむことさえちゃんとできない。 しかし、夫は慰めを言わない。人の心は分からないのだというだけである。
絵の物語でもある。 子供の写真すら登場しないと書いたが、主人公が描いたその子のスケッチが一枚。 そして、妻が庵主様に請われて描いた寺の天井画、心の恢復と共に描かれたたくさんの花の絵。 主人公が描いた妻の父の絵。 これら三枚の絵が、実は物語のすべてでもある。 そしていうまでもなく、おびただしい法廷画の数々。 エンドロールに映し出されるそれらの絵が、感情のうつわになって観客を受け止めてくれるだろう。
リリー・フランキーがあんなに演技が達者だとは知らなかった。 オススメ。
|
 |
◆このレビューを 1人 が参考になったと投票しています ◆このレビューは参考になりましたか? [ はい ] |
|
|
|
 |
 |
 |

|
映画 |
2007/12/15 |
| 転々 |
| ◎2007日本 |
|
|
|
|
三浦友和、オダギリジョー、最近、注目している二人の主演なので、早くから目をつけていた。出演者の中に岩松了の名前を見つけたときは、更に期待が高まった。
最初、笑いのつぼをはずしているシーンがいくつかあって、(たぶん、三谷幸喜ならもっと笑わせたろうと思う。小ネタの処理ほどおろそかにしてはいけない。『小津の秋』みたいな恋愛ものでさえ小ネタではきっちり笑わせた。「自分しか分からないジョークを言って一人で笑っているのが真のユーモリストである」と、サマセット・モームも言っている。かも。)「大丈夫かこのままで」と心配したが、小泉今日子が登場してから、一気に話がしまった。テーマが絞り込めて、それまでばら撒いてきた伏線が生きてきた。 岩松了、ふせえり、松重豊の三人組がサイコーに面白い。一言も台詞のない岸部一徳がいいところででてきて、上手い具合に物語をはぐらかす。この人も、「いつか読書する日」「フラガール」と、なくてはならない存在になっている。そういう人が、無言で、しかも本人役で、最後に物語をアンチクライマックスにそらしてしまう。
小泉今日子は、40になってもいい女で、引いても寄ってもサマになっている。肉屋の前でオダギリジョーと並んでいる立ち姿とか、携帯で話しながら歩いているところとか、コビトカバのくだりも自然で、しかもおかしい。コメディエンヌの才がもともとあったのだと思う。岩松了たち三人組のシーンが光ってくるのも、本筋がしまってくるからだ。
考えようによっちゃ、あの三人組は「マクベス」の酔っ払いと魔女、両方の役割を果たしているともいえる。物語の最初から結末は宣言されているので、笑いながらも実はとても怖い話。その怖さと可笑しさの両方を、あの三人組の無自覚な行動が際立たせている。小泉今日子の存在は、そういう猛スピードで流れていく怖くておかしい物語の一瞬のパラレルワールドなのである。だから、あんなに美しいのだし、カレーライスが悲しいのである。 |
 |
◆このレビューを 2人 が参考になったと投票しています ◆このレビューは参考になりましたか? [ はい ] |
|
|
|
 |
 |
 |

|
映画 |
2007/10/22 |
| サッドヴァケイション |
| ◎2007日本 |
|
|
 | 増殖する母性 |
|
このレビューはネタバレ要素が含まれています。
|
全文を読む(ネタバレ) |
『サッドヴァケイション』は、まず出だしのテンポのよさに引き込まれた。豊浦功補が笑って振り向く。背中に隠していた短刀にそれまでの緊張が収斂すると同時に、それが解放される。朝の町を駆け抜ける浅野忠信の自転車に乗って、そこから一気に物語が流れ出す。 『Helpless』、『ユリイカ』につづく青山真治監督の北九州もの第三作であるそうだ。わたくし、実は北九州の産なので、光石研と斉藤陽一郎の「北九州の感じ」が可笑しかった。ひとりで吹きだしていた。 人間関係の濃密さと希薄さが、点描派の絵のようにリズミカルだ。石田えりの、自己増殖していくような母性の不気味さには心底ぞっとした。寺山修二の『草迷宮』という映画をご存知だろうか。あのラストちかくの悪夢のような母性像に匹敵する怖さだと思う。中村嘉葎雄の指も震えようというものである。 石田えりの頬を打って中村嘉葎雄が建物に戻っていく。それをガラス越しに見つめている喪服の男たちの姿。単に生と死のコントラストというより、増殖する母性に対する死の敗北を思わせる。しかし、母性が死を超越するとしたら、母性は個性を持ちえないわけである。千代子という名前は多分偶然ではないのだろう。
|
|
 |
◆このレビューを 2人 が参考になったと投票しています ◆このレビューは参考になりましたか? [ はい ] |
|
|
|
 |
|
|
|
|