猫目荘を紹介してくれた友人と居酒屋へ。建物のボロさと共同生活に不平不満が止まらない/小説「猫目荘のまかないごはん」第3回【全5回】

東京ウォーカー(全国版)

「猫目荘のまかないごはん」(伽古屋圭市/KADOKAWA) 第3回【全5回】

昭和の香り漂う古びた木造の下宿屋「猫目荘」。引越し先を探していた降矢伊緒は友人に猫目荘を紹介してもらい、1日2食のまかない付きにひかれて、内見もせず入居を決めてしまう。入居当日、まかないを食べに食堂に集まった住人たちは個性的な人ばかり。建物のボロさと、これからの彼らとの共同生活を思いため息が出ていた。しかし、ふたりの男性大家が作るクリームシチューや豚キムチなどにひと手間加えたまかない料理は伊緒を心から幸せにしてくれて…。「猫目荘のまかないごはん」は伊緒と住人たちが織りなす、美味しくて心が温まるお話。
※2023年10月9日掲載、ダ・ヴィンチWebの転載記事です

「猫目荘のまかないごはん(角川文庫)」(KADOKAWA)

薄汚れた居酒屋の薄汚れたテーブルに届いた揚げ出し豆腐を、待ってましたとばかり口に放り込む。

「あっつ!」

「そりゃそうやろ」と友の冷静な突っ込み。「火傷した?口の上の、うっすい皮んとこ火傷した?」

「なんでそんな嬉しそうやねん。火傷してへんわ」

こいつといると自然と関西弁に戻る。

「なんや、おもんない」

本当につまらなそうに唇を尖らせるのだから恐れ入る。鬼か、悪魔か。

この赤い血の流れていない女の名は川澄澄香。同じ漢字が連続するという、なかなかパンチの効いた名前である。

神戸の短大時代に知り合った彼女は大阪生まれ。彼女自身も自分の名前をネタにしていて、「藤田田かよ!」というセルフ突っ込みが強烈な印象として残っている。藤田田を知らなかったのでそのときは笑えなかったが、日本マクドナルドを創業したすごい実業家らしい。川澄澄香以上にインパクトのある名前だ。

以来しばらくは街中でマクドを見かけるたびに、彼女の「藤田田かよ!」が脳内で再生されて思い出し笑いをする羽目になったのはどうでもいい余談。

猫目荘に引っ越してちょうど一週間。今夜は初めての外食だった。

場所は高円寺にある場末の安い居酒屋。5年前なら女ふたりで来ることに抵抗があったかもしれないが、最近はもう「こういうとこがいいんだよ、こういうとこが」と思うようになってきた。それがいいことか悪いことかはわからないが。

悪態をつきつつも、十年来の友との食事はやっぱり楽しい。

「で――」焼き鳥の串を指揮棒のように振りながら澄香が尋ねてくる。「猫目荘はどう?いいとこっしょ」

なにを隠そう、彼女がわたしに猫目荘を斡旋し、放り込んだ張本人だ。

「それよ。今日はそのことを言いにきてん」

「感謝感激で、今日は全部奢ってくれるんか。ごっさんです」

「いやいや、真逆やから。ぜんぜん言うてたんと違うやん」

ここぞとばかり、わたしはこの一週間に溜め込んだ不平、不満、鬱憤、文句を吐き出した。

「まずだいたい、あんなにボロい建物とは思わんかった。あそこだけ50年は時が止まってるって。現代に残る最後の昭和遺産やわ」

「さすがに昭和の遺産はまだよぉけ残ってるやろ」

「部屋も昭和で止まってて、おしゃれさの欠片もない。部屋にいるとどんどん気分が沈んでくる」

「おしゃれさを求めてたとは知らんかった。古い建物でもええって言ってなかった?」

「トイレは狭いし、古くさいし、なんか臭い」

「トイレが臭いんは自分が出したもんのせいやろ。いい消臭剤教えるで」

「隣人がユーチューバーかなんか知らんけど、昼間っから大きな声でひとりしゃべってて、そのあいだは気が散ってなんもできへん」

「それは知らんがな。あたしやなくて本人に言いや」

「風呂場が共同ってのはやっぱキツい。なんかシャワー浴びてても落ち着かへんし、すごい気になる」

「その点も伝えてたはずやけど」

「話を聞いて頭で理解するんと、実際に経験するんはやっぱ違うやん」

「それはたしかにそうやな」

「夜寝るときもなんよ。ドアの向こうは室内の廊下やん。それもあって知らん人間と同じ家で寝てる感じがして、どうしても気になってまう。理屈でいうたらアパートやマンションと構造は変わらんのかもしれんけど、廊下が外にあるか室内にあるか、心理的にぜんぜん違うんよ。安心して寝られへんというか」

「なるほどなー。せやけど旅館も似たようなもんやろ。旅館やとべつにそんな気にならんけどな」

「旅館と自宅は違う」

「うん。それは正論やわ」

「あと、まかないはええけど、こぢんまりとしたテーブルで身を寄せ合って食べるとは思ってなかった。すごい食べにくい」

「べつに和気あいあいと団欒を求められるわけやないやろ。そう聞いてるけど」

「まあ、たしかにそれはそうやけど」

「だったらべつに気にすることないやん。周りは気にせず、自分のペースで気楽に食べたら」

「そうはいうても、やっぱり気になるて」

「そうかなー。そこはちょっと納得しかねる。カスハラやわ」

澄香との食事は当然のように気兼ねすることはないわけで、わたしが親しくない他人と食事をするのが苦手だってことは彼女は知らない。

でもさ、と彼女はつづける。

「まかないはおいしいっしょ。そこは売り文句どおりやったでしょ」

「うん、まあ、おいしい、とは思う」とはいえ正直、まだ緊張や居心地の悪さが先に立って、料理を心から味わえているとは思えなかった。「でも澄香かて、べつに食べたことあるわけやないんやろ」

「まあね」

彼女の仕事仲間がかつて住んでいて、それで猫目荘の存在を知ったらしい。ちなみに彼女の仕事はヘアメイクだ。ずっと会社に所属していたが一年前に独立してフリーとなり、以降も仕事は順調のようである。

新たに届いた芥子レンコンを口に放り込み、バリボリと嚙み砕きながら「だいたいさ!」と澄香が反撃に出る。

「どこでもいいからと泣きついてきて、内見にも行かず、ほとんどあたしにまかせたんはあんたやん。文句を言える立場ちゃうやろ」

「べつに泣きついてはないよ。相談はしたけど……」

昨年、上京したときからずっと住んでいたアパートが取り壊しになることが決まった。かなり前もって伝えられていたし、引っ越し費用も出るとのことだった。しかしそのころは完全に気力を失っていた時期だったし、時間の余裕があったことですぐに動く気にはなれず、ずっと放置していた。

そういえば転居先を決めなければ、と思い出したときには切羽詰まった時期になっていた。慌てて不動産屋に駆け込むも「この条件で、この家賃?」と思えるところばかりで、ろくな物件がない。春の引っ越しシーズンに完全に出遅れたのである。

いくつかの不動産屋を巡ったが、けっきょく満足できる物件は見つからなかった。

貧乏なので予算は少ないし、妥協が必要なのは百も承知だ。それにしたってまったく魅力を感じられず、納得できず、我慢を強いられるだけの家に引っ越したくはない。

そこで澄香に状況を伝え、どうすればいいかと泣きつい――相談した。上京したときの部屋探しも頼ったし、なにより東京で親しい友人は彼女しかいない。

「あ、それならええとこあるで」

と、話を聞くなり澄香が提案してきたのが猫目荘だった。

5年前に東京にやってきたときは、ここで自分の生きる道を見つけるのだと意気込んでいたし、都心に近い土地にこだわった。当時なら杉並区と聞いた時点で難色を示していただろうが、いまはもうどうでもいい。むしろ落ち着いた環境でいいんじゃないかと思えた。仕事先を変えることになるのも――たかがアルバイトで通勤する気はない――まったく問題はなかった。

かなり年季の入った建物ということが気にならなかったと言えば噓になる。しかしそれよりなにより「まかない付き」はあまりに魅力的だった。

不動産屋巡りで心身ともに疲弊していたこともあり、「そこにする!」と即決すると、澄香自ら大家への連絡などもろもろを請け負ってくれたのである。決めた以上、いまさら見にいってもしょうがないと考えたし、実物を見て決意が鈍るのも怖かった。どうせほかの選択肢はないのだから。

強制されたわけではなく、澄香は噓はついてない。

ただ、すべてを説明したわけでもなかった。

あらためて好物の揚げ出し豆腐を口にする。ほどよく冷めて、いい塩梅だった。お出汁の上品な味が衣にしゅんで――染み込んで、という意味である――最高だ。

「たしかに下見もせずに決めたけどさぁ。でも、なんかすごいええように言うてへんかった?大家と結託して、リベート貰ってんのとちゃうか?って思うくらい」

「リベートなんかあるわけないやろ。あたしも人づてに聞いただけやし、その人はめちゃくちゃいい物件やって言ってたから、それをそのまま伝えただけで」

たしかに合う人にはとことん合う物件なのかもしれない。

「わたしには合わんわ。知らん人間と食事をするんも、一週間経っても慣れんし」

「まだ一週間やん」

「もう一週間やよ」

はぁぁああぁ、と澄香は特大のため息をつく。

「どうせ神戸に帰るっちゅう選択肢はまだないんやろ」

「当たり前やん。あの人にコントロールされる人生はごめんや」

「じゃあ、いつまで燻ってんの?」

澄香の代わりに、あんまり好きじゃない芥子レンコンを睨みつける。

短大を卒業後、父親のコネで入社した神戸の会社でぬるま湯の会社員生活を送っていた。ところが24歳のとき、人生を変える事件が起きた。その事件の裏にいたのは父であった。わたしは自分の人生を取り戻すべく、会社を辞め、両親に無断で実家を飛び出し、花の都大東京にやってきたのである。

しかし、それから5年――。

いまだに取り戻す「自分の人生」は見つかっていない。この2年は見つける努力もしていない。

わたしはテーブルに片ひじをついた手に顔を預け、だらんと傾く。

「ぼく、もう疲れたんだよ、スミカッシュ」

「スミカッシュ?」

「あ、いや、パトラッシュとかけてみた」

なんでわたしはすべったギャグの説明をしてるんだ。

「ぜんぜんかかってへんし――」ぼやいたあと、まじめな顔つきになる。「どっちにしろ引っ越すお金はないんやろ」

「まあ、そうやね……」

今回は引っ越し費用が出たが、次はそうはいかない。それどころかそろそろ次のバイト先を見つけなければ、その猫目荘から追い出されることにもなりかねない。

いま振り返ってみると、会社員時代は呆れるほどお金を浪費していた。フリーターになってようやく、本当のお金の価値を知れた気がする。いまの金銭感覚からすれば、ドブに捨てたも同然のお金は少なく見積もっても3、400万円はある。それをいま、ここに持ってきたい。いまのわたしのほうが、もっと、ちゃんと、有意義に使えるのに。

澄香は気楽な調子で言う。

「まあまあ、住めば都。そのうち慣れるって」

だといいんだけど……、と思いながら箸で揚げ出し豆腐をつつくと、「全部食うなし」と澄香に取られた。やっぱりこいつは鬼だ。


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