マル暴…それは、暴力団を指す、警察関係の隠語。または、暴力団に関する事案を扱う警察内の組織や刑事のことを指す。2023年3月に定年退職を迎えるまで茨城県警組織犯罪対策課に所属していた小川寛之さんは、いわゆるマル暴刑事であった。そんな小川さんは現役時代に漫画を執筆。小川さんが描いた「神様お願いです」は、若気のいたりで暴力団へ加入してしまった主人公・茨城次郎の悲しい末路を描いたもので、暴力団追放のための啓発漫画動画として、今も多くの人に見られ続けている。マル暴刑事であった小川さんが、なぜ漫画を執筆することになったのか?制作に至った経緯や制作裏話について話を聞いてみた。
当時の本部長からの「何か新しい企画を」の声に応え、漫画に着手
――小川さんが在籍していた“組対課”とは、どのような部署なのですか?
【小川寛之】正式には「茨城県警察本部刑事部組織犯罪対策課」というのですが、名前のとおり、組織犯罪を捜査する部署です。最たるものが暴力団、また、近年では特殊詐欺。主に、この2つの組織犯罪を担当しています。私自身は昨年度末まで課長として従事し、事件の捜査、被疑者の検挙、暴力団排除活動などの指揮を執る立場にありました。
――長であった小川さんが自ら、漫画作品「神様お願いです」を制作された経緯は?
【小川寛之】この漫画はもともと、2022年10月に行われた「暴力追放茨城県民大会」で上映するための動画素材として作ったものです。その年の「暴力追放茨城県民大会」はコロナ禍の影響で3年ぶりの開催となったことから、ただの前例踏襲でない、何か新しいソフトな企画ができないかと、当時の本部長から相談を受けまして。その中で「例えば漫画みたいな手法もあるよね」という話が出たんです。いいアイデアだと思いましたが、その時点ですでにスケジュールの余裕がなく、課内で制作ができる者を探して打ち合わせして…と悠長に動いていては間に合いそうになかったため、私自身で担当することにしました。
――漫画は普段から描かれていたのでしょうか?
【小川寛之】いえいえ。子どものころは漫画を描くのが好きで、ノートに描いては友達に見せていたんですが、高校生のときにやめてしまったので、今回の作品を描くまでの40年間ほどは、何も描いていません。というのも、小学校5年生のときの同級生で、私なんかよりもずっと上手に漫画を描く男の子と女の子がいたので「漫画家になるのは、こういう生まれついての天才だ、自分は続けてもプロにはなれない」と、妙に納得してしまいまして。その後、高校生までは趣味程度に描いてはいましたが…。ちなみにその同級生のうち男の子のほうは、のちにプロのイラストレーターになったようです。
――そうなんですね!てっきり、署内で「絵が得意」として知られていて、名指しで制作依頼があったのかと想像していました。
【小川寛之】いえ、普段署内で絵を描くことはありませんから!この漫画を描いた際は、多くの人間に「本当に小川が描いたのか」と声をかけられ、とても驚かれました。駆け出しのころは防犯や交通安全のチラシの絵を描いたりしていたので、当時一緒に勤務していた者は知ってるんですけどね。
――この漫画は、どのような方法で制作されたのでしょうか?
【小川寛之】およそのストーリーは、すぐに頭に浮かびました。時間が惜しかったので、それをそのまま描き出して、あとでディテールを肉付けして進めた形です。
【小川寛之】大した道具は使っていなくて、小学生のころノートに描いていた延長線上で、コピー用紙に油性ペンで描いています。初めは1枚絵をたくさん用意して、紙芝居のような動画にするつもりでした。しかし描き進めるうちに盛り込みたいシーンが増え、かといって制作枚数は増やしたくないというせめぎ合いの中で、苦肉の策としてコマを割ることにしたんです。
【小川寛之】白黒なのも、色を付ける手間が惜しかったからです。あとになって、主人公が身につけている十字架の黄色、血の赤色などポイントになる部分だけに色を足しました。
――一部だけをカラーにして目を引く演出はとても印象的ですが、初めから狙ったものではなかったんですね。時短を狙った結果だったとは!
【小川寛之】そうなんです。直線でなく、ギザギザの枠線を多用しているのも、時短のための工夫です。定規を使わずにフリーハンドで描いたほうが早いですからね。鉛筆での下描きなしで、ペンで一発描きしているコマもけっこうあります。
――文字は手書きではありませんが、どのように入れたのですか?
【小川寛之】パソコンでテキストとして打ってプリントした紙を、のりで貼りました。原始的でしょ。それをスキャンして動画に仕上げてくれたのは広報を担当する部門です。広報担当といっても動画制作に長けているわけではなくみんな素人だったので、動画制作ソフトを駆使して、パソコンで合成した音声を当てて作り上げていってくれたんです。おかげさまで期日までに仕上がり、無事に大会で上映することができました。
衝撃のラストには裏解釈があった!
――「神様お願いです」はとても迫力のあるストーリーですが、ご自身の刑事としての経験を漫画にも反映されたのでしょうか?
【小川寛之】いえ、実際の事件や実在の人物をモデルにしてしまうと問題が生じますから、完全なる私のオリジナルストーリーです。この漫画を描いたとき、私はもうすぐ60歳を迎える年齢でした。その年齢の私がひとりで考えて描いたものですから、絵柄や野球、暴走族といった要素に“昭和を感じる”とよく言われます(笑)。
――では、キャラクターにも特定のモデルはいないんですね。
【小川寛之】主人公の茨城次郎は架空の人物です。「茨城次郎」の名前は、適当につけました。警察関連の啓発漫画の主人公ってなぜかそろいもそろって「太郎」ばかりなんです。だからちょっとだけ変えたくて、次郎にしました。
【小川寛之】ですが、主人公が手を染める特殊詐欺のターゲットとなる年配女性には、すでに他界している私自身の母親のイメージを投影しています。誰しも、母親には特別な思いがありますよね。私も、もっと孝行しておけばよかったと後悔しているのですが、そういう自分自身の気持ちを込めれば、読み手に何かしら感じ取ってもらえるのではないかと考えました。
――ストーリーを作るうえでこだわった点、苦労した点は?
【小川寛之】説明くさくしない、詰め込みすぎないことです。あまり長いと、動画にしたとき、見てもらえないだろうと思ったので。トータル20枚、動画にして10分以内を目指しました。刑事としてはもっと言いたいことがあるのですが、より伝わるものにするため、削ぎ落として削ぎ落として、核になる部分だけ残しています。
――タイトル「神様お願いします」に込められた意味は?
【小川寛之】オープニングとエンディングをつなげる主人公の重要なセリフを、そのままタイトルにしました。実はこの作品はもともと無題で、神への願いという要素やタイトルはあとから付け加えたんです。いったん全体を描いたあと読み直して、話にもっと深みがほしいと思い、主人公が身につけている十字架のネックレスという小道具と、その贈り主であるヒロイン「メグちゃん」を追加しました。メグちゃんは、主人公を応援する「女神」なんです。
――ラストは、主人公の死。人間は、死んでしまえば、ゲームみたいに生き返ることはできない。やり直しがきかない…当たり前のことを再認識させられた、衝撃の幕引きでした。
【小川寛之】結末は、主人公が相手の命を奪う、あるいは、自分が命を落としてしまう、この2つのパターンのどちらでいくか、迷いました。描いたあとも、これでよかったのかなと考え続けていたんですが、誰よりも先に完成漫画を読んだ妻から「茨城次郎は死んでないよね。だって、どこにもハッキリと死んだとは描いていないから」と、思いがけない指摘を受けたんです。そういう受け取り方もできるんだ、では、助かった彼が刑罰を受けて更生して、いつかヒロインと結ばれる未来があるかもしれないと気づいてから、この終わり方でよかったと思うようになりました。
逃げたいこともあるだろう。しかし、逃げる先が暴力団であってはならない
――本作を通して、小川さんが伝えたかったことは?
【小川寛之】若い人は国の宝です。だから道を踏み間違えないでほしい。暴力団との関わりは、本人はもちろん、家族にとっても、社会にとっても、悲しい結末しか生みません。今はさまざまな情報が氾濫している時代ですが、経験が少ない若いうちは信憑性に欠けるうまい話に耳を貸してしまいがちで、やってはいけないことに手を染めてしまう子もいます。しかし、「高額バイトがあるから」などの甘い誘いに安易に飛びついたら、人生を台無しにしちゃうよ、と、教えたいですね。
【小川寛之】講話や教科書という堅苦しい手段だけでなく、より親しんでもらいやすい漫画という形でメッセージを送ることは、とても有効だと考えています。親や先生から説教されるよりは「この漫画ちょっと読んでみて」と勧められたほうが、受け入れやすいでしょうしね。
ーー若い人が暴力団へ加入することを、阻止したい、と。
【小川寛之】そうですね、もちろんいろいろな方に読んでいただければとは思いますが、特に、若い人に読まれることを願います。生きていたら、逃げちゃいたいくらい、嫌なことはある。でも例えば、今はもう死んでしまいたいと思うほどつらいことでも、大人になって振り返ってみたら、過去の人生のほんの一時期の出来事に変わりますよね。だから、決して死んだり犯罪に逃げたりしないでと伝えたいですね。うまくいかなくても、大変でも、スポーツ、勉強など、何か目の前のことに一生懸命取り組んでみたら、得られるものがたくさんあるはず。
【小川寛之】「悪い奴には何を言っても伝わらない、変わるわけがない」という人もいます。しかし、何をやっても無駄だとは思いたくない。この漫画を読んで立ち止まってくれる人がひとりでもいるのであれば、私が描いた意味もあるのかなと考えています。
ーー茨城県警を定年されましたが、今後も漫画を描かれる予定はありますか?
【小川寛之】本年2023年3月に定年を迎え、茨城県警を離れました。もう「現職の刑事が描く」という形にはなりませんが、これからも何かしら作りたいと思ってはいます。そのうち、今回の漫画の続編を描くこともあるかもしれませんね。先ほど話に出たように、もし主人公がラストで死を免れていたとしたら、彼はその後、どういう人生を歩むのか。次はハッピーエンドだといいですね。
小川さん原作の啓発漫画動画「神様お願いです」は、茨城県警察公式YouTubeチャンネルにて現在も公開中。小川さんは退職時に「今後も活用してください」と漫画を托して県警を後にしたそうだ。2023年11月現在、再生回数は1.6万回を突破し、茨城県警によると「県内の方から『プリントして学校で配布したい』といった要望が寄せられているだけでなく、外国の方から『この漫画が出版されているなら購入したい』との問い合わせを受けたこともあります」とのこと。小川さんが発したメッセージが県境も国境も越えて、ますます広まることを期待したい。小川さんがマル暴刑事を定年退職して県警を去ったあとも、漫画は人々に読まれ続け、そのメッセージは人々の心に届けられていくだろう。
この記事のひときわ
#やくにたつ
・現場の人間が発信する情報には力がある
・身近な同僚は意外なスキルの持ち主かもしれない。仕事仲間のことを知る
・漫画はメッセージを届ける有効な手段
取材・文=仁田茜