失語症を乗り越えた声楽家・原口隆一さん「今だから歌える歌詞がある」

東京ウォーカー

脳梗塞を経験した70代後半の声楽家とは思えない、がっしりとした体つきの原口隆一さん。学生時代に音楽家を志す前は、バレーボールの選手として活躍し、現在も毎日トレーニングを続ける、スポーツマンな一面を持つ。

発病から24年が経過しようとしている現在も、脳梗塞による失語症は、完全に治ったわけではない。それでも原口さんの口からは、幼少期の思い出から闘病の記憶、現在の活動まで、次々と人生のストーリーがあふれてくる。その話しぶりから、歌い、生きることへの喜びがひしひしと伝わってきた。

清瀬市の自宅に併設された舞台で歌う、原口隆一さん


52歳で脳梗塞を発病


「もう、死ぬのかな」。それが失語症に陥る前に発した、最後の言葉だった。武蔵野音楽大学を卒業した原口さんは、オーストリア政府給費生として、国立ウィーン音楽院に留学。1968年にはマリア・カナルス国際音楽コンクールにて、Honorar賞(名誉賞)を受賞した。その後もアメリカでの第二回国際声楽指導者会議に招聘されるなど、音楽家として順調な日々を送っていた52歳の原口さんを、突如病魔が襲う。それまで一度も病院にかかったことがなく、自分の血液型さえ知らなかった原口さんにとって、まさに青天の霹靂だった。

入院から3日後に行われた初めての回診で、主治医から名前を尋ねられ、口を開くも言葉が出てこないことに気付く。質問の意味を理解し、文字で「原口」と書くことはできても、それを言葉に表すことができないのだ。正式な診断名は「解離性動脈瘤による脳梗塞」。言葉の理解や表現をつかさどる、左脳側頭葉の言語領域がダメージを受けていた。だが、元々体が丈夫で血管が強かったこともあり、脳出血には至らなかったのが不幸中の幸いだった。

日本語でのコミュニケーションが難しかった入院中、不思議とよく口をついて出たのが、ドイツ語だったそうだ。原口さんの妻もドイツ留学を経験していたため、意思の疎通に役立ったという。原口さんはその理由を「成長の過程で自然と話せるようになった日本語と、後から努力して習得したドイツ語とでは、脳の使う部分が異なるのでは」と考えている。

発病直後は半身不随で箸を持つこともままならなかった原口さんだが、入院から18日目に許可された仮退院の際には、驚くほどの回復を見せる。しっかりとした足取りで自宅へ帰り、その日の夕食では箸を使い、自分で食べ物を口に運ぶことができたそうだ。

失語症との壮絶な戦い「一緒に死んでくれないか」


だが、体の回復とは裏腹に、失語症のリハビリは困難を極めた。発病から1カ月が経過した頃になっても、自分の名前を言うことすらできない。初めは半年ほど経てば治ると楽観していた原口さんだったが、自身が置かれた厳しい現実を思い知ることになる。その後、言語聴覚士のもとへ通院し、本格的なリハビリがスタート。自宅では寝る間を惜しみ、カードに描かれた絵の名前を発音する練習や、妻が手作りした時計盤を使い、時間を読む練習などに励んだという。

発病から3カ月が経過した頃、ようやく「音楽に取り組もう」という感情が芽生える。だが、この時直面した残酷な現実が、原口さんをさらに絶望の淵へと追い込むことになる。この頃の原口さんは、病気により視野が狭くなっており、ピアノを弾こうにも両端の鍵盤が視界から消えてしまっていた。さらに、歌詞を思い出せる歌曲は一曲もない。暗闇の中をさまよい続けるような日々を送る中、原口さんはついに、妻へ「一緒に死んでくれないか」と切り出してしまう。「妻を残して自分だけ死ぬことはできない」と考えた末の言葉だった。

失語症を乗り越え再び舞台へ


一度は死も覚悟した原口さんを回復へと導いたのは、「もう一度舞台に立ちたい」という強烈な願いだった。やがて音楽への情熱を取り戻し、発声の練習を開始した原口さん。幸い声や声量は衰えていなかったものの、歌詞を覚えることに加え、音階やリズムを正しく捉えるのも、当時の原口さんには大変なことだった。

なんとか暗譜で一曲を歌えるようになった時には、発病から3年の月日が経過していた。「やっとの思いで歌い終えた時は、その場でクラクラと倒れるかと思うほどでした」と当時の心境を振り返る。こうして自信をつけた原口さんは、発病から6年後にホームコンサートを成功させ、その翌年には念願のリサイタルを開催。発病から7年の歳月を経て、声楽家として本格的な復帰を果たした。

病気を経験したことで、音楽に対する考え方にも変化が生まれた。プロの声楽家としてステージに立ち、武蔵野音楽大学で教鞭を執ってきた原口さんにとって、地元の清瀬市で歌ったり、趣味で音楽を楽しむ人々へ指導をしたりする活動は、発病前には考えもしないことだった。

だが、病気をきっかけに、音楽は芸術を鑑賞するためのものだけでなく、健康にも良い影響を与えると実感した原口さんは、教え子の高橋諭世さんと共に、2005年から清瀬市主催の市民講座で指導を開始した。そこに集まったのは、なかには音符を見たことがない人もいる、年齢・性別・職業の枠を超えたさまざまなメンバー。音楽を生きがいとして楽しみ、学び、発表する活動はその後10年続いた。現在は休止中だが、再開を待ち望む声が寄せられているという。

「今だからこそ歌える」狛江市のステージで日本の歌を披露


【写真を見る】高橋諭世さんのピアノ伴奏にのせて、迫力あふれる歌声を披露


原口さんと高橋さんは現在、9月10日(日)に狛江市で開催される「『狛江の日』音楽祭~音楽と食が彩るひととき~」でのステージを控えている。出演するのは、狛江エコルマホールで午後1時30分から行われる無料公演「原口隆一の“日本の歌”~失語症を乗り越え、今日も舞台に立つ」。普段はドイツの歌曲を歌うことが多い原口さんだが、今回歌うのは日本の歌。作曲家・信時潔の歌曲集「沙羅」から構成される8曲のプログラムだ。

書家である高橋さんの母が書いた「沙羅」の墨跡に心を揺さぶられたことが、選曲のきっかけ。実は原口さん、今回選んだ8曲すべて、これまでに歌った経験がない。歌詞を漢字やカタカナ、ローマ字、時にはドイツ語で記し、暗譜に励んでいるそうだ。「病気を経験した今だからこそ、歌える歌詞。それを皆さんに届けられることが嬉しい。聴く方1人1人が自由に感じていただけたら」と原口さん。

現在も原口さんの声は衰えを知らない。通常、クラシックの歌手はオーケストラと歌うため喉への負担が大きく、50代で引退する人が多いという。だが、原口さんの場合は病気による休養期間があったことに加え、筋力があるため、高齢者に多い声の揺れが起きていない。「今も声が出ているのは、病気をしたから」と、現在では人生最大の苦難を前向きに捉えている。

なお、「『狛江の日』音楽祭~音楽と食が彩るひととき~」では、フリーアナウンサー・永井美奈子さんの語りに乗せて、動物にちなむ曲を演奏する「こまえの仲間たちによる“ガラコンサート”」など、500円の有料公演も実施。「緑の三角広場」に登場する屋台村では、タンドリーチキンや餃子、タコスといった多彩なフードと共に、ビール、日本酒などのドリンクを販売する。

有料公演チケットは、狛江エコルマホールで発売中。無料公演は、当日券を4階ホール受付にて、開演45分前より配布する。公演に関する内容の問い合わせ・申し込みは一般財団法人狛江市文化振興事業団、屋台村に関する内容は狛江市観光協会事務局(狛江市役所市民生活部地域活性課)へ。【ウォーカープラス編集部/水梨かおる】

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