平成31年3月末日で幕を閉じることになるであろう「平成」。
現在、ほぼ平成全ての期間において、東京を中心に街を追い続けてきた「東京ウォーカー」が、読者やタレントらと共に動く新企画「平成PHOTO熱記」をスタートさせている。「平成PHOTO熱記」では、読者やタレントから「最も“アツかった”“沸いた”“思い出の”“最高の”平成の記録」となる写真を募っている。そこで、平成のほぼすべての期間を、ドラマ界の第一線を走っている女優の観月ありささんも本企画に参加!観月さんの平成の1枚って…?
昭和の時代が続いたら、私みたいなタイプは活動ができていなかったかも
――まず、観月さんが平成元年(89年)を迎えられたのは12歳の時ですが、当時のことを何か覚えてらっしゃいますか?
昭和生まれなので“平成”という言葉に最初は違和感があって、慣れるのに時間がかかったのは覚えています。今では“平成”が当たり前に感じるようになっているんですけどね(笑)。
――1992年(平成4年)の「放課後」(フジ系)から2017年現在まで、観月さんは26年連続、計30作の連続ドラマで主演をされています。平成のほぼすべての期間を、ドラマ界の第一線で走り続けてこられたわけですよね。
ひたすらガムシャラにこの平成を走ってきた感じはありますね(笑)。私は平成になってから連ドラで主演させていただくようになりましたし、歌手デビューをしたのも平成でしたので。昭和の時の自分の活動と、平成以降の活動は全く変わりましたし、平成になってから自分の運気がすごく変化したと思います。当時は、私のようにモデル出身で女優や歌手になるのは珍しかったので、時代が変わったんだなって。その頃はアイドル氷河期と言われていて、10代前半の子がデビューするのも特殊な感じがあったんです。そういう意味では、時代が変わったから、私がそこに適合したと言えるのかもしれませんね。
――観月さんが世に出てこられた時の衝撃はすごかったです。このスタイルはなんだ!?と。
そうかもしれません(笑)。だからこそ、昭和のモデル時代は、私にはやらせていただけない仕事もたくさんあったんです。「もう少し一般的な体型がいい」とか、「クラスにいそうな感じの人がいい」ということで、需要がなくて。でも、平成になってから、世の中が新しいタイプの人間を受け入れてくれたと感じます。あのまま昭和が続いていたら、もしかしたら私みたいなタイプは活動できていなかったかもしれないし、こんなに長く連ドラの主演をやらせていただくこともなかったかもしれないですね。
――ただ、初主演作の「放課後」の頃は、その後26年間も主演し続けるとは、さすがに想像もされていなかったのでは。
まったく考えてなかったですね(笑)! モデル出身なので、そもそも最初はお芝居をすること自体に慣れていなくて。映像で動いている自分とか、お芝居している自分に違和感が強かったので、自分には向いていないと思っていましたね。こんなに長くお芝居をやるとは思ってもいなかったです。
「ナースのお仕事」でお芝居の楽しさを実感できるように
――そんなお芝居の仕事がしっくりくるようになったのはいつ頃だったのでしょうか。
うーん、20代になってからかもしれませんね…。19歳の最後に「ナースのお仕事」(96年フジ系、その後シリーズ化)をやったんですが、それぐらいからかな。お芝居の楽しさを感じたり、一人の役の人格を作るということを考え始めたのは。それまではただガムシャラに現場に行って、お芝居をしているのか自分を出しているのかも分からずにやっている感じだったかもしれません。
――看護師・朝倉いずみ役をコミカルに演じた“ナース”シリーズは観月さんの代表作の一つですが、この作品と出会うまでは、お芝居の仕事にまだ迷いもあったということでしょうか。
ありましたね。10代の時は「このまま続けていていいのかな」とか、「お芝居ってどうしていいのかわかんないな」とか、混沌としていたかもしれません。どうしていいのかわからないけど、ただ毎日忙しいから、ひたすらそれをこなしていくっていう感じで。
――では、“ナース”で、芝居を続けていく覚悟のようなものができた感覚が?
“ナース”の前に、「7月7日、晴れ」(96年)という主演映画の公開があったんですよ。ドラマや映画って、見ている方の表情は、役者は見られないじゃないですか。だから自分のお芝居が見る方にどう届いているのか、それまではあまり分からなかったんですね。でもこの映画の試写会で、お客さんが感動してスタンディングオベーションしてくれる姿を見ることができて…。その時に、「お芝居でこうやって人に感動を与えることができるんだ」と思ったんです。そこからかもしれませんね、お芝居に対する気持ちが少しずつ変わっていったのは。
その後に“ナース”と出会うんですが、自分が演じた“朝倉いずみ”というキャラクターが独り歩きしていくのを見て、作品を評価されるとこうなるんだと初めて感じることができました。ただ、その時も芝居を一生やっていくとは思っていなくて、ただガムシャラで。でも、小さな何かはつかめたような感覚がありました。それまではコミカルな作品をやっても、私はツッコミ役だったんです。でも“ナース”で初めてボケ的な役をやったことで、お芝居って相手とのキャッチボールなんだなと、改めてお芝居の基礎が分かり始めて。それまでは「とにかく拾って!」と、投げっぱなし(笑)。相手の俳優さんがベテランの方ばかりで、きれいに拾ってくださっていたからドラマとして成立していたんだと思うんですが、今思うと、ちゃんとした掛け合いになっていなかったのではと思いますね。
毎年ドラマの主演をやることが普通だと思っていた
――毎年ドラマで主演するということを、ご自身で意識されたのはいつですか?
それは意外と遅かったです。毎年やるのが普通なんだと思っていたので、「今年は年に2本やるんだ、大変だなー!」みたいな感じでやっていましたね(笑)。で、19年続いた時に世の中で話題になって、初めて自分でも自覚して。「あ、みんなそんなに毎年やってないものなんだ」と、その時にハタと気づきました(笑)。
――26年連続ってものすごい偉業ですよね。
毎年必ず4か月は連続ドラマをやっているわけですし、自分でも頑張ったなと思います。作品によっては2クールのドラマだったこともあるし、1年に2本やったこともあるし。そうすると1年の半分は自分とは違う人間を演じているわけですからね(笑)。よくこれだけいろんな作品と出会い、いろんな役柄をやってきたもんだなと思います。
――ここまで走り続けてこられた原動力は何だったのでしょうか。
毎年やっているから、仕事をしていない自分を想像できないというか、やらない選択肢がないというか。もちろん10代や20代前半の時に、「芸能の仕事を辞めて、違う仕事をやろうかな」と思った時期もあるんですが、辞めて何するかは具体的に思い浮かばないんですよね。幼い頃からこの世界にいるので。
それに、ドラマはその時その時の出会いが楽しくて。作品ごとに内容も共演者もスタッフも変わるので、その新しさが原動力だったのかもしれないです。これだけ長くやっていると、当然、若い俳優さんとお仕事をする機会も増えてくくるので、「なるほど、今の若い人たちはこういう芝居をするんだ」と刺激を受けたり。そういう出会いに新鮮味を感じていますし、それがあったから続けてこられたと思います。
後編では、観月さんが「平成PHOTO熱記」に投稿するなら…?また、過去に観月さんが表紙を飾った「東京ウォーカー」を公開!【東京ウォーカー編集部】
取材・文=大西淳子