7/10から大阪・国立国際美術館で「束芋:断面の世代」展開催! 現代美術家“束芋”に直撃インタビュー!(2)

関西ウォーカー

→(1)のつづき

―その「自分なりの表現」を得られたのは?

例えば、友人の家で「珈琲と紅茶どっちがいい?」ってたずねられた時に、本当は自分は紅茶が飲みたいんだけど、周りがみな珈琲だった場合、「私も珈琲」って言っちゃうこととかあると思うんです。そういうごく単純なことを含めると、自分が本当は感じていることを表に出さないことってすごく多いと思うんですよ。それは別に生活をスムーズにしていくためにも、そういうちょっとした嘘を私は大切にしていきたいとは思ってるんです。なのですが、それが少しずつ大きい決断に繋がっていっちゃうことで、自分の表現をどんどん失っていくことにもなり得ると思っています。それで、大学の卒業制作をやり終えた時に「ここでは嘘つかなくていいんだ!」って気付いて。作っている時は「自分の表現」をそこまで意識してたわけじゃないんです。「にっぽんの台所」の前に「眠り過ぎた日本人の話」っていう本を作ったんですけど、それを作った時に、何故か自分が「日本の社会問題」を取り上げていることに気付いて、それで、それを自分でも不思議に思ってたんですよね。普段強く考えてるわけではない「社会問題」というものを捉えて、それをまたモノクロのアニメーションに展開した時に、私だけでなく周りからも「面白い」と評価されました。それで、「何が今までと違ったのかな?」って考えたら、ただ単純に「嘘をついてない」ってことだったんですよ。「社会問題」っていうと、ちょっと表現としては大袈裟になったりするじゃないですか。そこにリアルにアプローチしてないと取り上げにくかったり、御法度とされる部分なんかもあったりして。「にっぽんの台所」でもあった「日の丸」をあしらったものなどは危険視されたり。でも自分にとっての「日の丸」を考えた時に、そんな大したものじゃないんですよね。国旗ていうのは日本を象徴する一番簡単な記号であって、そこにある私の感覚は右でも左でもない。「右っぽいから使わない」って判断するほうが不自然でした。そういう感じで、嘘をつくことなく、自分の「感じていること」を丁寧に探しだすようになったんですよ。

―芸術家の方は、あくまでも自分と対峙して内向きに作品を作られている方と、大衆に向けて外向きに作品を作られている方の二種類いらっしゃると思っているんですけど、束芋さんは後者ですか?

いや、たぶん両方ですよ。人の目も気になるし、他者に見て欲しいって気持ちもあるし。結局、私自身が表現者でありながら鑑賞者でもあると思うんですよ。どっちの要素が欠けても私はバランスを崩すと思います。誰かのために、っていうわけではないけど、自分が鑑賞者となった時に「こう感じる」っていうところを見つけ出してはまたフィードバックしていく。そういう行き来で制作しています。

―ちゃんと人の目に触れられるエンターテイメント的な要素も含んでいるアートという。

エンターテイメントって、例えばプレゼントを直接すぐ目の前まで届けてくれるものだと思うんですけど、アートの面白さっていうのは、プレゼントを遠くまで投げて、「あそこにあるよ、取っておいで」って感じのものだと思うんですよ(笑)。その遠くに投げる行為を表現者自身も楽しんでいるし、それを取りに行く鑑賞者も楽しんでくれないと成立しない。ただその鑑賞者が「いや、私はいらない」って言ってしまえば何の価値もなくなってしまいます。私という個人的な表現者としては、遠くには投げるんだけど、鑑賞者から見えないほど遠くには投げないで、ちゃんとこの鑑賞者が「あそこに何かあるぞ」って気付く範囲内に丁寧に置いておくということをしたいなって思います(笑)。

―徒歩圏内で(笑)。そう言えば、今回の展覧会のタイトルにもある「断面の世代」についての説明がフライヤ−に書かれてありましたけど、すみません…私の読解力がなくて理解できませんでした…。教えてください(笑)。

笑。私はいつもこれを太巻きで表現するんですけど、太巻きを切った時に断面に出て来るものがあるじゃないですか、お米とか、干瓢とか、色んな具が。この面にはすべての要素が詰まっていて、これを人に例えた時、私たちとか、私たち以下の世代は、コンピューターの導入などにより、個人でそれぞれにすべて持ち合わせながら、ひとりひとりはすごく薄い存在だと思っています。全ての要素を持ち合わせていることで、自分で全部できちゃう気がしてすごく小さいことで満足してしまってたりすることが多いんだと思うんですよ。私たち世代はそれぞれに完成された「太巻き」を目指しているとすると、その断面という2次元の存在を意識して、その特性を生かせば、私たちも力を合わすことで独特の太巻きを完成させられる。太巻きのかたちにはこだわらない方が面白い。逆に、団塊の世代の人達は同じ太巻きという形を目指していたとしても、それぞれがちゃんと干瓢だったりきゅうりだったり、一人一人が個性を持った人達で構成されている。でも、お米や海苔といったリーダーがしっかりとまとめないと太巻きにはなれない。このコンセプトに行きついたのも、ひとつ上の世代と話した時に、すごくびっくりするような感覚を持っている人が多かったんです。世代の違いを浮き彫りにしてくれるのはいつも、他の世代の人たちとの会話だったりしたので、“世代”というものにこだわるようになりました。

(取材・文=三好千夏)

→(3)に続く!

http://news.walkerplus.com/2010/0708/34/

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