横浜を拠点に活動しているプロレス団体があるの、知ってる? その団体とは大日本プロレス。そこで正統派プロレスの魅力を見せてくれているのが今回登場する関本大介選手。その腕のぶっといことといったら…。
――まずはプロレスラーを志したきっかけを聞かせていただけますか。
「僕は実家が大阪なんですけど、中学の時に大阪府立体育館で初めてプロレスを見て感動して、その瞬間にプロレスラーになろうと決めました。全日本プロレスのチャンピオンカーニバルという試合で、小橋建太さんが初めてスタン・ハンセンに勝ったんです。目の前で見たプロレスラーの強さもそうですし、大きさや頑丈さや迫力に感動して。こんなにすごい人たちがいるんだと」
――でも、中学、高校は高知県の強豪・明徳義塾で野球部の所属でしたよね。
「一塁を守っていました。中学から寮生活ですよ。大阪は野球の競技人口がすごく多くて、うまい選手は小学校から目をつけられて引っ張られたりするから、野球で地方に行くというのは普通のことなんです。僕の小学校の時のチームはそれほど強くなかった。それじゃあ高知県に行け、と親父に言われたんです。高知県だったら高校が少ないから甲子園も近い、しかも高校からだと何だから中学から行けと。何も悪いことをしてないのに、ホント、少年院みたいなところで(笑)。中1の時はホームシックでよく泣いてました」
――お父さんのたっての希望で野球をしていたわけですね。
「ただ、高校ではほとんど野球の練習はしていないです(笑)。1、2年生のころは先輩に怒られるのでタマ拾いをやらないといけないんですけど、部員が120人くらいかな、とにかくいっぱいいるので、一人ぐらい抜け出して筋トレをしていてもバレないんです。もちろんプロレスのためです」
――筋トレの部屋には一学年下の横綱朝青龍もよくいたとか。
「相撲道場がウエイトルームの隣にあったんです。だから相撲部のやつとかけっこうやりに来ていました。朝青龍がベンチプレスをやっていたので僕も隣でやったりしましたけど、やっぱり強かったですね。向こうは当時から怪物だったんで(笑)。僕ですか? その時は全然です。中2ぐらいまでは甲子園を目指していたし、中等部では運よくレギュラーになれましたけど、高等部となるとまたいろいろなところから集まってきて、特待生ばかりになっちゃって…。僕たちみたいに普通に野球をやりたくて入ってきた連中は甲子園どころかレギュラーも無理だなと」
――なるほど。それで、夢をかなえるために卒業後に大日本プロレス入りしたわけですね。
「野球部の馬淵監督に『お前、そんなに太っていてなにやりたいんだ。そんなに太っていたらレギュラーなれないぞ』と言われた時に『僕、プロレスラーになりたいんです』と答えたんです。さすがにエッと驚かれましたけど、『じゃあ、オレが就職先を探してやるから頑張れ』と言われて。ホント、こわい監督なんですけど、部員一人ひとりに平等にすごく親身に接してくれる監督でした。120人の部員がいたら120人を同じように扱ってくれるんです。野球に関しては違いましたけどね」
――ちなみに高校のときの体格は。
「100キロ近くありました。とはいえ高校生なので(パワーの部分で)レベルはそれほどでもないんですけど、とりあえず毎日体を鍛えていたので、そこらの高校生よりは体格がよかったとは思います」
――どのような経緯で大日本プロレスに。
「監督と(大日本プロレスの)グレート小鹿社長が何かでつながっていたみたいで。98年の神奈川ゆめ国体に明徳義塾が出場したんですけど、僕も遠征チームについて行って、東京駅前のなんとかホテルで面接しました」
――お父さんの反応は。
「親父にはずっと言っていたんですけど、『お前みたいなのがなれるわけない』と言われていました。だから親父を見返してやりたいというか…でも、入ると決まってからは応援してくれていますね。ただ、お袋はずっと反対しています。最近はあまり言わなくなったけど、『いつ大阪に帰ってくるの』ってずっと言われてましたからね(笑)」
――その額の傷跡などを見ると、女親はそう思うのかもしれませんね。
「これはまあ、多かれ、少なかれね。でも、僕がやっているスタイルはデスマッチとかじゃなく、普通の、従来のプロレス…正統派というか、普通のプロレスです。いろいろとプロレスは見てきましたけど、やはり僕はファンの皆さんに『頑張れ』と応援されるようなプロレスをしていきたいですよね」
――その意味で、いまでも小橋建太選手は憧れの存在なのでしょうか。
「初めて見た当時は憧れでしたけど、いまは憧れというか…尊敬はしていますよね。あんな大病になってもトレーニングをしている。すごいと思います。練習の虫ですよね。そういうのを聞くと、僕も小橋さんぐらい練習しないと強くはなれないんだと強く思います」