小畑友紀原作の少女漫画を映画化した『僕等がいた』は、観た人すべての恋愛モードのスイッチをオンにするような、ビタースイートなラブストーリーだ! 北海道の高校に通う主人公、矢野元晴(生田斗真)と高橋七美(吉高由里子)の恋心が育ちゆく瞬間を紡ぐ前篇。そして、社会人となり上京したふたりの関係が、つらい運命によって引き裂かれてしまう後篇。誰の心にも響く、まさに恋愛クロニクル。このエモーショナルな作品を手がけたのは三木孝浩監督。10代、20代のナイーブな心模様をケレン味なくまっすぐに撮りあげる姿勢に好感度大。“現代の若者映画”の旗手となりつつある三木監督が、『僕等がいた』にこめた思いを語ってくれた。
Q:この映画の物語は、とにかく「恋愛」でどんどん押していきますよね。てらいがなく、ここまで清々しいラブストーリーは久しぶりに観ました!
三木監督(以下三木):『僕等がいた』を作ったひとつの意味として、「日本が大変な時期だから、何とか元気を取り戻してほしい」という気持ちがありました。恋愛ってすごくエネルギーがでますし、特に女性が恋愛に一生懸命になっている社会って、活気が生まれますよね。本作は、そういうきっかけになるモノにしたかったんです。
Q:三木監督の前作『ソラニン』は非常に等身大的なストーリーですが、『僕等がいた』は少し違うと思うんです。観る人に憧れを抱かせ、ややもすれば自分の恋愛実体験すらも改変させるような、フィクショナルな要素が非常に強い映画ですよね。
三木:まさしくその通りです。『ソラニン』は登場人物を客観的にとらえていたのですが、一方『僕等がいた』は各キャラクターの感情の機微に寄り添っていくことを念頭に置いていました。つまりアプローチの仕方が違う。『僕等がいた』の原作を読んだとき、少女漫画ならではのファンタジックな文法が感じられました。台詞と心の声が明確に分かれておらずグラデーションになっていたり、心が動く瞬間にキラキラした演出があったり。台詞もどこかポエティック。そういった“非現実”な部分を逃げずに描くようにしました。
Q:生田斗真さん、吉高由里子さんの力演も見ごたえがありました。物語のなかに相当入りこんでいたんじゃないですか。
三木:前篇の撮影時から出演者のパートナーシップがしっかりできあがっていました。カメラがまわっていないところでも、みんなすごく仲が良かった。それが、そのまま表れている。生田君と吉高さんは仲が良くなりすぎて、「ここは矢野、七美が付き合う前の場面の撮影だから、もうちょっと(気持ちを)押さえて!」と注意したほど(笑)。後篇では矢野が東京、七美が北海道で遠距離恋愛になるので、出演者がバラバラで撮影することも多かったのですが、生田くんは「そっか。今日は吉高さん、撮影に来てないんだ」と本当に寂しそうなときもあって。そういうリアルな感情が(役に)出ています。
Q:「クラスの3分の2が好きになる」というモテ男・矢野は、生田さんしか演じられないと思いました。『源氏物語』では絶世の美男子に扮していましたし。
三木:生田君には「異性だけではなく、同性も放っておけない感じを出してほしい」と話しました。俳優でいうとリバー・フェニックス、ジェームズ・ディーンのような、男から見てもカッコいいキャラクター。でも、素直さゆえにダークサイドに引きこまれてしまう。『スター・ウォーズ』のアナキン・スカイウォーカー、『ロード・オブ・ザ・リング』のフロドみたいな弱さも表現してもらったんです。そして、そういう闇から矢野を救いだすのが、高橋七美というワケです。
Q:確かに今回の吉高さんは今まで以上に魅力的でした。つかみどころのない女優さんだな、と思いました。
三木:吉高さんって小悪魔的イメージを持たれていますが、数年前にショートフィルムでご一緒したときにものすごく素直で飾らないところを感じ、それが七美に通じるものがあった。そういう吉高さんの良い部分を引きだしたかったんです。女優・吉高由里子の素の魅力がこの映画で見えるんじゃないかな。
Q:『ソラニン』『僕等がいた』を通していえることは、1974年生まれのロストジェネレーション世代である三木監督らしい若者の描き方。失うことへの恐怖心がびっしり描かれている。『僕等がいた』はスイートな恋愛映画でありながら、そういったシビアな社会批評を持ちあわせています。そこがこの作品のポイントなのかな…と。
三木:それは自分の作品のテーマなのかも知れません。この『僕等がいた』も、若者の“もどかしさ”を描いています。ただ、それは世代に関わらず共感できる部分。高校生のときはどこか相手に完璧を求めてしまって歯車が狂い、大人になったら相手を思うがゆえの(気持ちに)ズレがあったりする。そういった“もどかしさ”を、『僕等がいた』からすくいとって観て欲しいです!
【取材・文/田辺ユウキ】