6/8に東京・有楽町スバル座での『この空の花 -長岡花火物語』上映最終日を迎え、多くの観客で客席が埋め尽くされた。この日は、美術評論家の椹木野衣氏、コラムニストの中森明夫氏、現代美術作家のヤノベケンジ氏、美術家の飯屋法水氏らが、同じスクリーンで作品を鑑賞するという奇跡の日となった。上映後には満員の客席から拍手が鳴り渡り、さらに大林宣彦監督が登壇するというサプライズも起こった。
4/8新潟県先行ロードショー以降全国各地で順次公開の『この空の花 -長岡花火物語』は、2004年の新潟県中越地震から復興をとげ、11年の東日本大震災発生時には被災者をいち早く受け入れた新潟・長岡市を舞台に、ひとりの女性新聞記者がさまざまな人と出会い、不思議な体験を重ねていく姿を大林宣彦監督が描く。
大阪は布施ラインシネマで6/23(土)より、京都は京都みなみ会館で8/11(土)より公開予定。
この奇跡の場に立ち会った椹木氏は、最終日を迎える前に作品を鑑賞し大きな衝撃を受けたという。そんな椹木氏が大林監督へ贈った手紙と、その手紙を受けて大林監督が椹木氏へ綴った手紙から『この空の花 -長岡花火物語』に込められたメッセージ浮かび上がる。以下手紙本文。
大林宣彦 監督
はじめまして。わたしは美術評論家の椹木野衣(さわらぎ のい)と申します。
本日は、監督に直接お目に掛かってお話できる機会をいただきながら、どうしても外せない用事があり、参加することができませんでした。ご容赦ください。
私は、監督の新作『この空の花』を拝見して、たいへんな驚きと衝撃を受け、それ以来、連日、ツイッターで、この映画についての自分の考えを発信し続けています。ひとりでも多くの方に、この映画を眼にする機会を持ってほしいと、強く願ったからです。
日本は、あの3月11日以来、たいへんな災害の渦中にあります。私も、数度にわたり被災地を訪ねましたが、福島第一原子力発電所の事故に至っては、これからどうなるのか、目処さえ立っていない状況です。
そうした背景もあったからなのでしょう。けれども、それだけではなさそうなのです。なにがそうさせたのかはわからないのですが、とにかく、この映画で描かれた、夢とも現実ともつかない、天国と地獄が混じり合ったような世界は、わたしの心の奥底に入り込み、ふつうに映画を観て楽しんだり、語ったり、論じたりという回路を、あっけなく壊してしまいました。それでも、わたしは、それがなんなのかについて、今日も考え続けています。そのため、未見であった大林監督の近作も、一作ずつ遡りながら、観なおしているところです。
きっかけとなった『この空の花』に始まり、『その日のまえに』、『転校生 さよなら あなた』、『22才の別れ 葉見ず花見ず物語』までを、ちょうど、おととい、見終えたところです。そして、そのなかで、これらの作品を通じて、大林監督が、「転校生」から「校」の文字を取った「転生」の問題を、一貫して扱っていることに気づきました。
私は、「この転生」という文字をずっと眺めているうち、ここでの「転生」とは、一輪車に乗り、輪を「転」がすあの少女の、本当であればありえたはずの「生」が、震災下に、映画の姿を借りて「転生」した姿なのだと思い当たりました。そして、それもまた、ひとつの花のかたちなのだと。
実際、大林監督の映画には、いろいろな花が登場します。花火を扱った『この空の花』で、元木花の乗る一輪車は、まるで一輪の花のようでもあります。『22才の別れ』では、花は、「花」鈴という女性の名に映され、そこでは、彼岸花が咲き乱れます。『その日の前に』で、「その日」を迎えた、とし子のもとに届けられた花は、「タンポポの綿帽子」でした。それは、打ち上げ花火の丸いかたちを思い起こさせます。こうして、すべての花は「転生」するように映画のなかを転がり、たがいに繋がっています。
しかしながら、同時に花とは、はかない運命を持つものです。永遠の生命を繋ぐために、花は必ず枯れなければなりません。花火もそうです。打ち上げ花火が美しいのは、けっして、それが爆発するからではないと思うのです。どんな大きな花火も、華麗に花開いたあとは、すっと虚空に消えて行く。そこにこそ、花火の美しさがあるように思います。そう考えると、元木花という少女そのものが、花火のようにはかなく、夢のような存在で、しかし、だからこそ、観るものに永遠の生命を予感させる、闇のなかに咲いた一輪の花なのだと思うのです。
そう書いてみて、わたしは、映画とは、ちょうど打ち上げ花火のような存在なのだと思い当たりました。映画は光と影からなる幻であり、実体はありません。しかしながら、光と影で描かれた、この映画という花火は、場合によっては、現実を超えて観るひとの心に焼き付き、そのひとの生き方を根本から変えてしまうことさえ、あります。『この空の花』に、私は、そのような力を感じました。この映画そのものが、このうえなく力強い打ち上げ花火であり、それを皆で一緒に鑑賞する映画館の場は、一種の国民的な花火大会だと空想します。
長くなってしまいました。そろそろ筆を置かなければなりません。いま、僕の願いは、この花火大会を、劇場を埋め尽くす大勢の人と一緒に鑑賞することです。いわば、河川敷をうめる尽くす、ほんとうの花火大会です。そのとき、『この空の花』は、まだわたしたちに見せていない、もうひとつの、まったく別の顔を見せてくれるはずだと、確信しているからです。
わたし自身、もういちど、この映画を劇場で観るつもりでいます。できれば、有楽町スバル座の最終日に足を運んで、多くの方々と、『この空の花』がいまいちどスクリーンに打ち上げられ、爆発し、散りゆき、この「葉」のない「花」が落ちた先から、数えきれないほど多くの命が「転生」してくることを、強く、強く希望しています。
大林監督、『この空の花』を届けてくれて、ほんとうにありがとうございます。またお目に掛かれる機会を願っています。
2012年5月29日
椹木 野衣
【その2】(http://news.walkerplus.com/2012/0615/26/)へ続く