ソロ以前の在籍バンドであるBRIDGE時代から数え、デビュー20周年を迎えた今、自身のレーベルを設立。変わらずキラキラ輝きながらも、新しさを感じる。ドリーミーかつリアルなのが、今作最大の特徴である。
―ソロデビューの前に在籍されていたバンドのブリッジから数えると、20年間トラットリアとフェリシティという同系列のレーベルにおられた事になるんですよね。今回、自主レーベル「BLUE BOYS CLUB」を立ち上げられ初となる記念のアルバムなので、この20年間を駆け足にはなってしまいますが振り返らさせてください。一番濃密に感じられるのは、90年代ですよね。
「そうですね。特に(ソロアルバムでの)最初の4枚までは、ものすごく忙しかったし、今よりももっとテレビに出たり、ラジオ等のレギュラー番組も数本持ちながら制作もしていたので、かなり激しく濃い数年間でしたね。2000年を境に、もう少し緩やかにというか、それでも年に1枚はアルバムをリリースしてきましたけど、もうちょっと地に足をつけた活動をしようという気持になったんですね。5枚目の『You Will Love Me』(2000年発表アルバム)からは、カフェライブを始めたりもして。当時カフェライブってそんなになくて、それを定期的にライフワークとしてスタートさせたんです。そういうことで、草の根に立ち返った時期でしたね」
―改めて90年代のお話も伺いたいんですけど、いわゆる渋谷系という文化もあったりして、本当に幸福な時代だったと思うんです。
「実際の渋谷系という言葉自体は、93年とか94年くらいの話で。コーネリアスと小沢健二君とピチカートファイブとオリジナルラブのフィーリングを相して、渋谷系ですよね。もっと言えば、HMV渋谷店の(バイヤー)太田浩さんが展開する素晴らしいコーナーが当時店内にあって、そこでセレクトされて置かれたものが渋谷系なんです。そのコーナーは、本当にリアルだった。太田さんは、(渋谷系に)似てても非なるものは置かなかったので。当時、ブリッジが渋谷系と呼ばれるか呼ばれないかは、僕もピリピリしていて(笑)。結構、ライターの方もリスナーの方も厳しくて、ブリッジをそういう風に呼ばない人も時々いたんです(笑)。今思えば不思議でしょ?僕がソロデビューする頃は、渋谷系という言葉はもう死んでて(笑)。『MINI SKIRT』(97年発表ファーストアルバム)が出る頃くらいに『最後の渋谷系!』と多分当時のレコード会社の人が煽ったりしたんですね(笑)。それで、何かまた渋谷系という言葉が復活したと思うんです。でも僕は、ソロが売れるかどうかものすごい不安だったんです。実際ソロデビューまで1年かかりましたし。それは急に悩み出した時期があって、引きこもりみたいな状態にも陥ったりして。同じトラットリアだったコーネリアスの小山田君は、フリッパーズギター以前のロリポップソニックからファンであり、友達でもあったんですね。で、あの頃すごく思ったのは、彼と同じ事を僕がやっても絶対ウケないだろうと。あと、いわゆる渋谷系って、あの頃くらいはスタイルを意識し過ぎて閉じてる感じがあって。当時95年くらいのいわゆる渋谷系の流れって、ラブタンバリンズがすごく大人気でフリーソウル(というジャンル)もすごく流行ったんですね。シーンは、みんな黒っぽい方にいっていて。僕は好きではあるけど、自分でやるのは違う感じがしていて。多分自分も閉じた部分があって、他を寄せ付けない感じもあったと思うんです。でもそれじゃ絶対に広がらないなって思ったし、もっと大衆にアピール出来る物が作りたかった。実はお手本になったのはスピッツさんで、あの頃、『空の飛び方』や『ハチミツ』というアルバムを聴いて、すごく好きになったんです。イギリスのギターポップとかギターロックから影響を受けてる点で凄く共感をしましたし、尚かつ素晴らしい日本語の歌詞と、美しいメロディで歌ってるのは凄いと思いました。あと、小沢健二君はソロデビューしてからも大好きで、特に『LIFE』の何かすごい勢いというか…、あれはものすごく刺激になりました。『これくらい吹っ切れてないと駄目なんだな』というのは、感じていましたね」
―2000年代になり、多くのバンドが解散したり、例えば小山田さんや小沢さんも90年代後半からリリースとしては沈黙の時期があったり、聴き手も含めて閉塞感があったんです。カジ君自身も外国へ行かれている事が多かったじゃないですか。
「あの時期が精神的に一番しんどかったなと思いますね。もちろんシーンがどんどん変わっていくのは当たり前だし、そこで戦っていかないといけない訳だし。『A LONG WEEK-END』(02年発表アルバム)出す頃は、シーンに対しての居心地の悪さを感じていました。でも、その頃のクアトロとかでやっていたライブは、すごい盛り上がっていたのも事実で(笑)。チャーベ(松田岳ニ)君繋がりでハイスタのツネちゃんとかスキャフルとか、AIR JAM系の人たちとも仲良くさせてもらったりしていた時期でした。自分の楽曲も激しめのロック色が強いものが多くなってきて。でも、今思うと初期を聴いてくれていた人は、そんなにロック色を求めていなかったのかなと。ライブに来てくれてるお客さんは、そういうのを求めていたんだろうと思うし。もしかして、そのまま、そういう方向を続けていれば、そういうお客さんはもっと増えたかもしれないけど。でも、何か自分の中で刺激とか好奇心というものが薄れた頃でもあって。日本のシーンから少し距離を置きたいと思ったりもして、結構日本を離れている時間が多くなったんですね」
(その2に続く→http://news.walkerplus.com/2012/0622/14/)
【取材・文=鈴木淳史】