京都で絶賛公演中のノンバーバルパフォーマンス「ギア-GEAR-」の連載コラム第6回目(毎週木曜日更新)。今回も制作スタッフの大名(だいみょう)が、マイム俳優・いいむろなおきさんにインタビューしました。
「こんにちは、大名です。気がつけば8月も中旬に差し掛かろうとしています。周囲を山に囲まれた京都盆地は、連日蒸し暑い日が続いています。今回はギアに出演中のマイム俳優・いいむろなおきさんと1928ビルB1Fの『カフェ・アンデパンダン』さんにて、マイム人生とギアにかける想いについてお伺いしました」
大名:今日は『カフェ・アンデパンダン』さんにお邪魔しております。選ばれたきっかけは?
いいむろ:ギア公演会場と同じ1928ビル内にあるカフェなんですが、レトロな雰囲気の店内に若者の熱気が渦巻いている感じがすごく好きですね。
大名:まずはマイム俳優・いいむろなおきのルーツについてお伺いしたいと思います。いいむろさんはどんな子どもだったのでしょうか。
いいむろ:両親が人形劇団を主宰していて、小さい頃から舞台が非常に身近にある環境で育ちました。言わば「楽屋で育った」という感じでしょうか。特に意識することもなくこの世界で生きてきて、中学生の頃にはこの世界で生きていくという確信のようなものを抱いていました。
大名:マイムを始めたきっかけは?
いいむろ:実ははっきりとは覚えていないんです。友人の話によると、小学4年生の頃からマイムのようなことをしていたようです。中学時代にはマイケルジャクソンに心酔し、ビデオを何度も見ながらムーンウォークの練習をしたりしていました。その頃から、芝居よりも身体表現の方に興味が移行していったように思います。
大名:それから本格的にマイムを学ばれるまでの経緯は?
いいむろ:高校2年生の頃に「マイムが好きならマルセル・マルソーを見ておいたら?」と親に勧められて、正直「誰やねん、それ」と思いながら(笑)、彼の日本での公演を観に行ったんです。当時彼は既に70歳近い年齢だったんですが、そこには僕がそれまでイメージしていたパントマイムを遥かに超えた「何か」がありました。普段は滅多に買わないパンフレットまで購入したのを覚えています。そして、彼が主宰する学校がフランスにあることを知りました。
大名:それでその学校に行くことを決意されたと?
いいむろ:彼の公演を観た後では、彼は僕にとって月よりも遠い存在のように思えました。自分がその学校へ行くことなど夢のまた夢のようなことでしたが、その興味を何気なく父親に打ち明けたところ、思いがけず「行ったらええやん」という返事が返ってきたんです(笑)それで「あ、行っていいんだな」と。今考えると、父親のあの発言がなかったら僕の人生は全く違ったものになっていたかも知れません。
大名:フランスに行くことに対する葛藤はなかったのでしょうか?
いいむろ:もちろんありました。僕は当時まだ18、19歳という年齢ですし、行くことを決めたものの、全く知らないところに行くことへの不安は常に付きまとっていましたね。だからこそ、ことあるごとに周りの人たちに「自分はフランスに行くんだ」と宣言していました。自分を鼓舞する一つの方法だったのでしょう。余談ですが、フランスに渡航するまでの間に色んなアルバイトをしたのですが、しばらく音響や照明のお手伝いや、さらにはマネージャー業みたいなこともやっていたんですよ。必要な資金を貯めるためにやっていたことですが、これは今の自分にとって大きなプラスになっていると思います。
大名:そして19歳の頃にフランスに旅立たれたわけですが、「パリ市マルセル・マルソー国際マイム学院」はどんなところでしたか?
いいむろ:まず入学時にオーディションがあって、受験者の約半分の人数に絞られました。入学してからも、3ヶ月ごとに「明日から来なくていい人」というのが発表されるんです(笑)授業では、マイムや芝居はもちろん、クラシック・バレエやジャズダンス、フェンシングに至るまで、様々なことを学びました。学校は3年制でしたが、僕はここで学ぶべきことは1年で学んでやろうと考えていて、1年生の頃に2・3年生の授業を見学したりしていました。
大名:そこまでいいむろさんのやる気を掻き立てたものとは一体何だったのですか?
いいむろ:親のお金で通わせてもらっていたことでしょうね。自分のお金だったら、自分の好きなように出来るし、そこまでの気合いで取り組んでいなかったかも知れません。親が送ってくれる仕送りを絶対に無駄にしてはいけないと思い、学校に通いながらタップダンスやバレエなど他のことも積極的に学びに出ていました。他の生徒からは「学校の稽古だけで精一杯のはずなのに、なぜそんなに頑張るんだ」と好奇の目で見られることもありましたが(笑)
大名:そのようながむしゃらなフランス生活を経て、日本に帰ってきた経緯は?
いいむろ:結局フランスでは6年と少し暮らしました。僕は自分の人生を5年おきに自己審査していて、20歳から25歳までの期間はひたすら突っ走る期間と位置づけていました。25歳を迎えて、次の5年をどう生きていくべきかを考えました。小説家の中島らもさんの話で、裸足の民族のところにたまたま靴屋がやって来て、その時に靴屋が「靴を履かない人たちだから靴が売れない」と考えるか、「皆裸足なんだから靴が売れる」と考えるか、というような話があったのですが、この二つの考え方にはすごく大きな差があると思うんです。この話をマイムに当てはめると、日本はまだ発展途上です。フランスは確かにマイムをする環境は整っているし、居心地の良い場所でした。でも僕は、困難かも知れないけれど、日本でマイムの道を切り拓いていきたいと強く思い、帰国を決意したんです。
WEB連載【GEAR'S VOICE Vol.06】 ノンバーバルパフォーマンス「ギア-GEAR-」マイム俳優・いいむろなおき@カフェ・アンデパンダン<パート2>へ続く。