「犬神家の一族」「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」など、1970年代・1980年代の角川映画の初期黄金時代の歴史を再現した、関西ウォーカー掲載の作家・中川右介氏による連載「すべては、角川映画からはじまった。」。この連載が、単行本「角川映画 1976-1986 日本を変えた10年」になり、2/21(金)に定価1500円+税で全国の主要書店などでついに発売される。それを記念して、今回は序章をいち早く公開!
(以下、中川右介著「角川映画 1976-1986 日本を変えた10年」より)
序章 一九七五年
一九七五年(昭和五十)十月二十七日、角川書店創業者にして現役の社長である角川源義が五十八歳で亡くなった。入院したのはその年の八月で、肝臓疾患だった。本人には知らされなかったが、癌だったとも伝えられる。その前から体調はよくなかったので、突然の死ではなかった。本人も周囲も、その日の近いことはわかっていたはずだ。
十一月六日、角川書店の社長には長男で編集局長だった角川春樹が就任し、次男の歴彦は専務となった。敗戦から三カ月後の一九四五年十一月十日に、当時二十八歳だった角川源義によって創立された角川書店は、ここに新しい時代に突入した。
二代目社長角川春樹(一九四二~)は三十三歳、専務となった角川歴彦(一九四三~)は三十二歳と若い。角川書店そのものも創業三十年目であり、大手出版社ではあったが、岩波書店、新潮社、講談社などに比べると歴史は浅かった。
角川源義が病床にあった九月二十七日、一本の映画がひっそりと、しかし熱気を帯びて封切られた。高林陽一監督作品『本陣殺人事件』である。この映画は日本アート・シアター・ギルド(略称ATG)作品だった。ATGは外国の芸術映画の配給を目的として一九六一年に設立されたが、七〇年代に入ると、日本の大手映画会社から独立した監督たちと提携して低予算の芸術映画を製作・配給するようになっていた。
映画を製作・上映することが、ひとつの芸術運動として成り立っていた時代である。ATGの製作予算は一千万円とされ、それは当時の東宝や松竹などの一本あたりの製作費の数分の一だ。製作費はATGと監督の個人プロダクションとが折半で出すのが基本だった。
ATG作品は批評家たちの間では高い評価を得ていたが、興行的には苦戦するものも多かった。もともと「興行」という概念を嫌って、自分の芸術的信念に従い、観客に媚びるのではなく、自分の作りたい映画を作ろうという「運動」なので、興行として失敗するのは、当然と言えば当然だった。しかし日本が資本主義社会である以上、興行的に失敗すれば、誰かがその赤字を負担しなければならない。この運動が衰退していくのは必然とも言えたが、試行錯誤を繰り返し、一九九二年まで活動を続けた。
このATG史上、配給収入が初めて一億円を突破したのが『本陣殺人事件』だった。つまり最大のヒット作となった。難解な芸術映画のATGが娯楽色の強いミステリ映画を作ったことも話題になったし、実験映画、自主映画の旗手のひとりだった高林陽一の作品であることも一部映画ファンを惹きつけた要素ではあっただろう。だが、これだけヒットしたのは、当時すでに角川文庫が主導する「横溝ブーム」が始まっていたからだった。
ATGで『本陣殺人事件』を企画したのは映画館新宿文化の支配人でもあったプロデューサーの葛井欣士郎だった。葛井は『横溝正史全集』を出していた講談社の紹介で横溝を訪ね、映画化権を取った。さらに『本陣殺人事件』が角川文庫で出ていたので、角川書店にも連絡した。営業局長となっていた角川歴彦がこれを受けて横溝正史フェアの実施を決定、この時点では角川春樹は野性号で旅に出ていたと、角川書店の社史ともいうべき佐藤吉之輔著『全てがここから始まる』にはある。
一方、横溝の回想では、この年の六月十三日金曜日に、角川春樹が横溝正史を訪ねて来たという。日付まで確定できるのは、横溝がエッセイに書いているからで、「十三日の金曜日」に来たというので印象に残っているのだという。その日、横溝の許へは珍しく四組の来客があった。
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四組の客のひと組が、角川書店の当時の局長、現在の新社長の角川春樹君である。その春樹君曰く、「先生、そう出し惜しみをしないでドンドン作品をくださいよ。この秋までに二十五点揃えて、五百万部を突破させ、十月の文庫祭りを『横溝正史フェア』でいきますから」
私はしんじつドキッとした。因みに同書店の若い人が、去年(七四年)の暮れに持ってきてくれた集計によると、私の文庫本、十六点か十七点でたしか三百三万部であった。それを十カ月で二百万部刷ろうというのだから、いかに点数が増えるとはいえ、こいつはアタマから無理な注文だと思わざるをえなかった。そこで私曰く、「あんまり無理をしないでよ」
(「週刊読書人」一九七五年十二月二十九日)
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角川春樹の野性号の旅は六月二十日から八月五日である。つまり、横溝を訪れ、十月に横溝正史フェアをやると伝えてから旅に出ているわけで、佐藤の本の記述と矛盾する。
ともあれ角川の言葉通り、『本陣殺人事件』が公開された一九七五年秋の時点で、角川文庫の横溝作品は二十五点になり五百万部を突破、映画公開と同時期に書店には横溝正史フェアと銘打たれ、横溝作品が積まれた。角川は宣伝協力費として、『本陣殺人事件』に五十万円を出資した。
『本陣殺人事件』はいわゆる「角川映画」ではないが、角川書店あるいは角川春樹と無関係だったわけではない。
ひとつのムーブメントとしての角川映画の、起点のひとつだった。
※続きは2/21(金)発売の単行本「角川映画 1976-1986 日本を変えた10年」でお読みください!全国主要書店で発売。定価1500円+税。