2014年4/10、「スケキヨナイト~懐かしの角川映画を語ります!~」がトークライブハウス「ロフトプラスワン・ウエスト」(大阪市中央区)で開催。これは作家の中川右介さんの著書「角川映画 1976-1986 日本を変えた10年」出版記念のトークイベント。作家・中川右介さんと関西ウォーカー連載「銀幕魂」でもおなじみの映画評論家・平野秀朗さん、松竹芸能の芸人で映画に詳しいシンデレラエキスプレス 渡辺裕薫さん(日本アカデミー賞協会員)が出演、関西ウォーカー統括編集長の玉置泰紀を司会に、懐かしの角川映画についてトーク。後編をお届けする。
角川映画という存在の大きさ
玉置 今日、いろいろ話をしてきましたけど、みなさんにとっては、角川映画とはどういう存在ですか。
平野 自分の青春の思い出であり、映画のおもしろさを教えてくれたきっかけでもある。当時、日本映画は何をやってもダメでダサイといわれていましたが、僕たちの心を引きつけるような楽しみを教えてくれた、エンタテインメントの原点だと思います。
玉置 コラムニストの吉村智樹さんのブログで、五社が行き詰まっているときに、角川はめちゃくちゃ金を使って、ATGは全然金を使わなかったけど、あの時代においてこの2つがパンクだった。まさに新しい映画の価値を生み出そうとしていたのが、彼らだったとありました。
平野 76年から78年は、世界的に映画の歴史やエンタテインメントが大きく変わった時代。
中川 ルーカス、スピルバーグが出て来たころね。結局、角川映画のライバルっていうのはルーカス、スピルバーグの映画。もし、あれがなかったら、日本映画って「男はつらいよ」と「トラック野郎」とナントカカントカしかなかった。悪い映画ではないけど、高校生や大学生が見に行く映画ではない。今振り返ってみると。別に選んで角川映画をみていたわけじゃない人も結果的にあの時代、青年だった人たちは、結構角川映画を観てたんですよ。
渡辺 古い映画の世界には徒弟制度というのがあり、正攻法ではなかなか監督になれず、作品を撮れずにロマンポルノを撮ったり、コマーシャルに流れたりした。そこで角川春樹事務所はそういった才能を救済して開花させた。今の監督たちはそれに感謝し、パワーの源にもなったと思います。角川映画という存在は未知数の才能を開花させたひとつのエポックメイキングだったんじゃないかと。
中川 ただ、それも角川春樹はいろんな監督に声をかけているんだけども、ことごとく「お前の映画なんか撮りたくない」と断られた。それで結局井筒和幸たちの世代まで下がって、撮りたいという監督が現れた。市川崑や深作欣二ぐらいのベテランは受けてくれるけど、彼らと井筒監督世代の間の、全共闘世代、あのややこしい世代は反抗して、角川なんてお金ばかり使ってあんなの映画なんかじゃないとかいって、いくら角川が声をかけても断り続けてきた。そういう人たちがいたから、映画界はつまらなくなった。変に芸術志向になったりして、社会派じゃなきゃダメ、テーマがなきゃダメといったりして、娯楽映画を徹底的にバカにしたから。
玉置 大林宣彦監督は実験映画から来てマンダムなどのCMをずっと撮っていました。
中川 大林監督はあの本の副主人公なんです。大林さんは、五社とは関係ない人だから、意気投合する部分があってできたというのがあるんですね。
玉置 今モニターを見て、映画を撮りますよね。あれを一番最初にやったのも実は大林監督なんですけど、今、大林監督は一切モニターを観ないと。
中川 モニターを見る、ということは、演技をしている俳優はちゃんとは見ないわけですよ。昔の溝口健二監督とかになると、カメラを見ないんだよね。カメラマンも、カメラは私の仕事ですからと、監督には見せない。監督は常に俳優を見て、演技の良し悪しは指導するけど、構図や絞りはカメラマンの仕事だから現場ではチェックしない。それはお互いに職人としての誇りでもあったはずです。だけど、今の映画作りは全部モニターを見て、監督もみんな下を向きながら撮る。なぜモニターを見てはいけないかというと、もし役者の上に照明が落ちてきてもモニターに入ってきてからでは間に合わない。原田知世の上に照明が落ちてきても、大林監督は助けにいけない。大林監督は原田知世に「あなたの上にある照明が落ちたときに、真っ先に助けに行くのが監督の仕事なんだよ、だから安心して君は演技をしなさい」といったわけです。モニターを見ていたら、俳優との信頼関係はモニターを通してでしかなくなる。そうやってできているのが今の映画であると。
玉置 角川映画はずっとインフラを持たずにやってきましたが、今やスタジオもシネコンも、大映映画も持っていますね。
中川 インフラを持たなかったけど、あまりにも搾取が多い。配給収入の前に興行収入というのがあり、その半分を映画館が撮る。残りが配給会社が取る配給収入。そこから宣伝費やプリント代などが差し引かれてやっと角川事務所に入る。で、宣伝も角川がやってました。配給まで角川がやろうとすると、東映の岡田社長はそれまでは一緒に作っていたのに「角川君が配給を自分でやるようになったんだったら、我々とは協力はできない」といいだしたわけですよ。で、結局自社1社ではできないから東宝と組んで東宝に搾取される。映画館は札幌に1館作ったところで、事件があってダメになりましたが。インフラを持たないために搾取されるものも多かった。そんな困難な中であれだけの映画が作られていたことを考えれば、決して金儲けのためだけじゃなかったことがわかります。今これだけ映画界にお金を使った人はいないということがわかります。
平野 こういうお話を聞くと、やっぱりあの頃の角川は熱かったなと再確認することができました。
玉置 本日は興味深いお話、ありがとうございました!(了)