(「KANO~1931 海の向こうの甲子園~」永瀬正敏インタビュー(1)より続く)
日本の甲子園に出場するシーンも台湾で撮影した。「現代とは形が違うということで、当時の甲子園のセットを台湾に建ててしまったんです。甲子園独特の黒い土が台湾にないので、土を作るところから始めたそうです。土といえば、当時の台湾の土は水はけが悪かったらしく、練習場のシーンでも再現してます。また昔の野球の道具や外装の再現って大変なんですよ。特に当時の資料ってモノクロのものしかなくて。練習場のベンチも、当時は僕が演じる近藤監督が指示して建てたらしいんです。生徒のユニフォームも、汚れている段階を分けて用意して、カットが戻ったら、その場で着替え直さなきゃならない。監督の分は1着しかなかったんですけど(笑)。しかも対戦相手や甲子園では出場全チーム勢ぞろいのシーンがあったのでそれも全部作らなければならないし、当時の観客役の衣装も用意したから、何千着も必要だったと思います。背景や小道具にも注目してもらいたい」と目を細めて語った。
生徒役の役者たちとも交流を深めたそうで「僕はね、生徒がかわいくてしょうがないんですよ。1人でインタビューをしてもらっているのが寂しくて(笑)。隣にみんながいて、ちょっかいだしながらやりたいくらい。生徒たちは、役者としてはほぼ素人なんです。今回が初めての映画出演で演じること自体が初めて。普段使い慣れない日本語のセリフを言わなくてはならないし、当時の台湾語も覚えなきゃならない。相当な努力をしていました。映画が完成した時には生徒たちと観られて、感無量でグッときましたね。いまでも、彼らが日本に来たり僕が台湾に行ったりした時は交流します。何も言わなくても握手したりハグしたりするだけで気持ちが伝わりますから。ともに長い旅をしていた仲間ですからね(笑)」と情に厚い一面も覗かせた。
横浜がロケ地の「濱マイク」シリーズも長く愛されている。「横浜って町は僕には特別なんです。僕のデビュー作は『ションベンライダー』(1983年)という横浜がメインロケ地の作品でした。それを知っている監督さんが、濱マイクの時に同じようなカットを用意してくれて。濱マイクのテレビシリーズのカメラマンさんのお一人、たむらまさきさんは、『ションベンライダー』を撮ってくれたカメラマンさんでした。縁があるんですよね。思い出の店で言うと「コトブキ食堂」(現「レストランコトブキ」)かな。濱マイクの撮影中は、お昼も夜もそこで食べさせてもらってました。いまもオムライスが食べたくなるんですよ。あとはテレビシリーズの「喫茶マツモト」(実際は「マツモトコーヒー」)かな。そこも濱マイクの仲間たちがたむろしている設定の喫茶店で、いまもマスターに会うとうれしいですね。たま~に顔出す程度にしか行けなくて申し訳ない」
2013年の横浜みなと映画祭でも横浜を訪れた。「『濱マイク』シリーズの回顧展をやっていただいたんです。映画版で20年、ドラマ版で10年経って、映画祭に呼ばれるってすごいこと。歓声がね、黄色くないんですよ。ダミ声(笑)。「おいマイク!帰ってこいよ!」なんてね(笑)。あれは感慨深かった。横浜の方々の愛を感じました。何しろ、僕はまだ生きてるんで(笑)、生きているうちに回顧展をやってもらえるキャラクターがあるなんて、役者冥利につきますよね」
寡黙なイメージの永瀬だったが、インタビューでは、ユーモアも交えながら熱く答えてくれた。今回の映画は、“横浜の濱マイク”のように長く愛されるキャラクターとして、彼の代表作になりそうだ。