1890年9月9日、後に世界中で愛される一人の偉人が誕生した。
生まれはインディアナ州ヘンリービル。ケンタッキー州最大の都市であるルイビルと、オハイオ川を挟んだ町である。
“ハーランド”と名付けられた男の子は、早くに父親を亡くし、工場で働く母のために6歳で料理を始め、家計を助けるべく農場で働き始めたのは10歳のときだった。
学歴は小学校6年生の終了証だけ
14歳で学校をやめたハーランドは、陸軍の入除隊を経て、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保険外交員などを経験。学歴は、小学校6年生の終了証だけだった。
40種類にも及ぶ職種を転々とし、30代後半で「自分の将来は自分で決めよう」とガソリンスタンドを設立する。
注文の前にほこりをかぶった車の窓をサービスで洗い、ラジエーターの水を調べる。「他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である」という信念を実践した。
しかし、時流には抗えない。大恐慌と干ばつで、農民に貸していたガソリン代が回収できず、スタンドは売却を余儀なくされたのだ。
挫折と不屈の精神
幾多の挫折を経験しながら、ハーランドは1930年6月にケンタッキー州のコービンに再びガソリンスタンドを開業する。今度は苗字を冠した小さなレストランである「サンダース・カフェ」を併設した。
息子を亡くすという悲運に遭いながらも、スタンドはサービスの良さが評判を呼び、「サンダース・カフェ」も味の良さで人気となった。中でも、素材にこだわった手作りのフライドチキンは多くのファンを生み出す。
オープンから5年。1935年には、人々への貢献からケンタッキー州知事に名誉称号である「カーネル」を授与されるまでに至った。
ところが、ハーランドに再び災難が訪れる。新しくハイウエーが建設されると人の流れが変わって客足が遠のき、火事によってレストランを焼失してしまう。残ったのは1939年に完成したフライドチキンのオリジナルのレシピだけ。彼も既に65歳となっていた。
現在の日本でも定年である。もはや十分に務めを果たしたと考えても不思議ではない年齢だが、ハーランドの「猛然と働く意欲」は決して衰えていなかった。
彼は唯一手元に残ったフライドチキンのレシピを提供する代わりに、チキン1羽の販売につき5セントを受け取るフランチャイズビジネスを開始する。車で全米を巡り、ノウハウを伝達し続けると、73歳のときにはチェーン店舗が600店を超えるほどに拡大した。
1964年3月にフランチャイズ権を譲渡して引退してからも、親善大使として世界中のチェーン店を訪問し、合間を見つけては慈善活動にいそしんだ。
孤児院の子供たちのために毎日アイスクリームを作り、肢体不自由児のための基金を設立。「決して引退を考えずにできるだけ働き続けろ」「人間は働きすぎてだめになるより、休みすぎて錆付きだめになる方がずっと多い」という生前に残してきた言葉通り、1980年に90歳で生涯を閉じるまで、人を幸せにするために働き続けた。
フライドチキンの原点とは
彼が生み出した “フライドチキン”は、死後36年が経った今でも、“ケンタッキー・フライドチキン”として世界中で愛されているが、そのサービス精神と妥協なき姿勢のはじまりは、1939年のオリジナルレシピ完成でも、1930年の「サンダース・カフェ」のオープンでもないのかもしれない。
7歳のとき、弟妹と母のために焼いたパンが大喜びされ、彼はその嬉しさを生涯語り続けたという。
「おいしいもので人を幸せにしたい」。
“カーネル・サンダース”の誕生日となる今日、彼の生涯を振り返りつつ、フライドチキンの味を噛みしめてはいかがだろうか。【ウォーカープラス編集部/コタニ】
コタニ