ついに興行収入80億円を突破した「シン・ゴジラ」。大ヒット作の冠を戴き、怪獣映画史にその名を刻んだ同作が開いた新たな扉。それはこれからも作られるであろう怪獣映画を新たな世界に導くものなのか!?
日本になかった怪獣映画を作ってやろうという気概
去る11月17日、「シン・ゴジラ」の興収が80億円を突破し、観客動員数は551万人にのぼると報じられた。物価や興行形態の変化から金額ベースでの比較は難しいが、この動員数はゴジラが国民的な人気を誇っていたシリーズ初期作に匹敵する数字。14年に公開されたギャレゴジこと「GODZILLA ゴジラ」(興収32億円、動員数218万人)と比べても、2.5倍と本家の底力を見せつける結果となった。
その原動力になったのがリピーターの存在だ。作品にちりばめられたメタファーを解き明かそうと、繰り返し映画館に足を運んだ彼らが成功の一翼を担ったのは確かで、その姿は素直に頼もしいと思う。おかげで取材用に完成前のラッシュを一度、公開後に劇場で一度鑑賞しただけの自分などは、周囲から何度「それしか観ていないの?」と聞かれたことか…。多くのリピーターを生んだのは、2時間の枠に詰め込まれた膨大な情報量だけでなく、歯切れ良い展開、キャラ造形や作り込まれた映像などトータルのクオリティが高かったことはいうまでもない。
怪獣映画好きの自分にとって、「シン・ゴジラ」で何より驚かされたのは日本になかった怪獣映画を作ってやろうという気概を感じたことだった。いまから約60年前にデビューし日本中の度肝を抜いたゴジラだが、その後の“息子たち”は程度の差こそあれ、どれも初代のスタイルやテイストを追いかけていた。ある意味当然だし悪いとは思わない。しかし、昭和、平成、ミレニアムとシリーズを重ねるごとに人気が下降していった原因のひとつが、結果的に観る側に固定イメージを定着させてしまったこと。日本は怪獣王国でありながら、こと映画に関してはゴジラとガメラ以外の企画はまず通らない。同系の作品ばかり見せられては、良し悪しに関わらず子供か特定のファンしか興味を持たなくなっても仕方がないのだ。
そんな中に登場した「シン・ゴジラ」は、それまでのシリーズをリセット。「初ゴジありき」だった世界観や子供でもある程度わかる物語、何よりゴジラの生態やデザインなど“約束ごと”が、断捨離と呼びたくなるほど気持ちよく捨てられていた。初ゴジを敬愛する庵野秀明監督だけに、予定調和を嫌ったというよりは、怪獣映画というジャンルすらなかった中で作られた初ゴジの精神に立ち返った結果なのだろう。
中でも驚かされたのは、海から陸に上がり二足歩行へと生物(人類)の進化を追体験するかのように形態を変えてゆく、得体の知れない設定だ。初ゴジでは、ゴジラを目にした山根博士が、“ジュラ紀から白亜紀にかけて棲息した、陸上獣類への進化途中の海洋生物”と推測していたが、実際のゴジラはそんな理屈で納得できる域をはるかに超越。地球の生き物とは思えない、と言ってもよい。突然出現した何物かに、住みなれた街を焼け野原にされるやるせなさや無常感は、今作にも通じている。
怪獣映画が市民権を得るきっかけになってほしい
「シン・ゴジラ」の魅力は、新機軸を打ち出しただけではない。約束事ごとには囚われずとも、スクリーンで暴れる姿はお馴染みの怪獣スタイルを踏襲。メインとなる第4形態の重そうでゆったりとした身のこなしは、スーツやパペット、アニマトロニクスなど、いわゆるアナログ時代の怪獣だ。この動きなら造型物でもまかなえたのでは…というのはオールド怪獣ファンのぼやき。竹谷隆之氏によるゴジラのデザインを忠実に再現できたのも3DCGだからこそ、なのだから。
CGI(Computer Generated Imagery /コンピュータグラフィックスの応用)時代に突入して以降、特にハリウッドの怪獣映画は生き物のようにフレキシブルなキャラの動きこだわってきた。「ジュラシック・パーク」や「トランスフォーマー」、ギャレゴジだってそう。それは結構なことなのだが、激しく動くばかりが怪獣じゃない。特に最近は臨場感を出すために、カメラを縦横無尽に動かしすぎる傾向にもある。おかげで現場のまっただ中にいるかのような感覚は味わえるのだが、ただ派手さを追求するアトラク的映像にやや食傷気味なのも正直なところ。そんな中、今作のゆったりした動きやフィックス感を基調にした画作りは、かつて怪獣映画が持っていた純粋な驚異をストレートに感じさせてくれた。日本のゴジラを初めてスクリーンで見たファンでなくとも、新鮮に感じた人は多かったはずだ。そんな映像群に、伊福部昭の音楽が合わないわけはない。
「シン・ゴジラ」は、日本を壊滅の危機に陥れたゴジラと共存せざるを得ないという、ヒネリを効かせた結末を迎える。人知を越えた怪獣封印を成し遂げたのが、ゴジラに血液凝固剤を飲ませ、体内の冷却機能を阻止するという“ヤシオリ作戦”だ。ヤシオリとは「日本書紀」で、スサノオが八岐大蛇の動きを封じるために飲ませた八塩折之酒(やしおりのさけ)から命名されたもの。酒に酔い動けなくなった大蛇はスサノオに切り刻まれるのだが、その時に尾から出てきた剣が、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で、国を治め守るために神から授けられた三種の神器のひとつである。ゴジラが動けずにいる限り、国連軍は東京で核兵器を使えないという結末にもリンクする。
ちなみに八岐大蛇のエピソードは、円谷英二の特撮超大作「日本誕生」で描かれていた。それにしても、作戦名が長いからと八塩折の名をよどみなく口にする矢口の超博学ぶりは、何とも微笑ましい限りである。
含みを持たせつつ、余韻ある結末を迎えた「シン・ゴジラ」。心地よい幕切れだっただけに、安易な「2」は見たくないというのが正直な気持ちだ。現在すでにハリウッド版ゴジラシリーズが進行しているだけに、オリジナルの怪獣映画に打って出てくれないか。「やっぱりゴジラは強いよね」で終わらせるのではなく、今作が真の意味で怪獣映画が市民権を得るきっかけになってほしいと願っている。
【神武団四郎(じんむ だんしろう)●映画ライター。「映画秘宝」「シネコンウォーカー」などで執筆。映画パンフレットの執筆、編集も行う。編著書に「モンスター・メイカーズ 第3版」など、監修書に「スター・ウォーズ 制作現場日誌 エピソード1~6」など】
編集部