お酒1本から無料配達!“配送の常識”を覆すカクヤスモデルは、実は多くのピンチから生まれたものだった…!!

東京ウォーカー(全国版)

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東京都北区の1軒の街の酒屋からスタートした、「なんでも酒やカクヤス」を展開するカクヤスグループ。「23区内どこでも、最短1時間で、1本から、無料で」というキャッチフレーズで、これまでの“配送の常識”を覆して大きく成長してきた。“カクヤスモデル”という独自の配送網を築き上げるまで、さまざまな困難に立ち向かい、成長戦略の舵取りをしてきたのが代表取締役会長の佐藤順一さんだ。今回は、入社してから社長に就任されるまでと、バブル期の栄枯盛衰や酒離れによる業界の縮小。そして、カクヤスモデルを確立させるまでの歩みについて話を伺った。

朝から晩まで働き続けた、会長の下積み時代

株式会社カクヤスグループ 取締役会長 佐藤順一さん【撮影=オオノマコト】

ーーお爺様が創業された会社ですが、創業時のお話など聞いていますか?
【佐藤順一】まだ生まれる前のことなので、詳しくはわからないんですよね。もともと新潟から東京に出てきて、王子で酒屋を始めているんですけど、始めるきっかけが何だったのか全然わからないんですよね。お酒が好きだったってのがあるんじゃないですか?おふくろから、日雇いの方々に店先でコップ酒を出しているような酒屋だったと聞いています。それが、主な収入源になっていたそうなので、商売は大変だったそうですよ。

ーーネーミングの由来はてっきり安いという意味の「格安」かと思っていましたが…?
【佐藤順一】違うんですよ。当時、お酒は今のように一升瓶などの容器に入ってなくて、樽で届いて升で量り売りをするのが一般的だったんです。それで、升が四角いじゃないですか。その四角のカクと、初代の名前「安蔵」のヤスを合体させて“カクヤス”になったんです。漢字にすると角安なんですね。だから格別に安いというわけではなかったんですよ。ただ、それをカタカナにしたのは、センスありましたよね。大正時代で社名にカタカナを使う酒屋って、洒落ていたと思いますよ。そもそも、普通はマスって使うじゃないですか。ちょっと捻っている感じはしますね。

初代の安蔵さんが開いた、創業時のカクヤス本店。すべてはここから始まった【写真提供=株式会社カクヤスグループ】


ーー大正時代のこの辺りは、どのような町だったのでしょうか?
【佐藤順一】土木工事関係の人が多かったって言っていましたね。あと今、豊島五丁目団地があるのですが、当時は日産化学の大きな工場があって、関係者の方も来られていたそうですね。そこそこ人の往来はあったようです。

ーー入社されて社長に就任するまでの十数年で、学んだことや印象に残っていることはありますか?
【佐藤順一】入社当時は、社員が全部で16名だったんですね。入社してしばらくは、与えられた仕事をずっとやるだけだったので、特に何か疑問に思って学んだかっていうと、それはそんなになかったです。新人だったので必死に働いていましたね。

ーーどのような仕事から始められたのですか?
【佐藤順一】まず、入社の前日に「明日、何時に来ればいいですか?」って聞いたら、「朝5時ぐらいに来てくれ」って言われたんです。当時は、お客様の注文が留守番電話のカセットテープに録音されているんですよ。それを聞き取ってメモするという作業が、最初の作業でした。テープには200件から300件ぐらい録音されていて。相手が酔っ払っているので、何を言っているのかわからなかったですね。「1曲歌ってから注文しま〜す」って、歌い出したり(笑)。早送りして再生してもまだ歌っていて「いつまで歌っているんだろう?」って。そんなようなこともありました。これがだいたい2時間ぐらいかかるんですね。そして、そのメモを伝票に起こすのも2時間かかって、それが終わる朝9時ごろに社員さんが出社してくるんですよ。

やりたくない作業をひとりで背負っていたと、若いころを振り返った【撮影=オオノマコト】


ーーほかの社員さんが出社する前に奮闘されていたんですね。
【佐藤順一】そうですね。しかも、それが終わるとピッキングをして朝ごはんを食べて、みんなと一緒にトラックに乗って配達に行っていました。当時はトラックも5、6台しかなかったので、丸1日かけて配達して、戻ったら食事してお風呂に入って、今度は集金に出かけていました。「20時に来て」って言われて行っても、不在で回収できたのが21時とかね。帰ってくるのは深夜1時くらいになっていました。

ーーほぼ起きているときは働いてらっしゃったんですね。
【佐藤順一】毎日そんな感じで過ごしていましたね。要は、私が入社するまでは交代でやっていた、やりたくない作業が一方的に私のところにきていたんです。さらに普通の配達もあって。当時は、土曜日も働くのが当然だったので、日曜日はもうほとんど死んだように寝ていました。ただ、周りの社員も、私が大変だということは知っているので、帰りのトラックで「寝ていていいよ」とか、そんな空気はありましたね。

営業に配属され奮闘。倍に成長した矢先にバブルが崩壊…

暗黙のルールで縛られるなか、新たな手法を模索したそう【撮影=オオノマコト】

ーー周りの人たちから優しくされていたのですね。
【佐藤順一】優しくはないですよね。だって、そもそも優しかったら、その仕事を全部こっちに振ってこないでしょ(笑)。そんな生活が4年半ぐらい続いて、バブルに向かってくんですよね。そして営業を任されるようになって。そのころで印象に残っているのは、営業ができなかったことですね。お酒は免許業界だったので、いろいろな組合があったんです。経営者同士がしょっちゅう顔を合わせているから仲良くなっちゃう。それで、お互いに「営業活動しない」という暗黙のルールがあったんです。だから新たな契約を取ることができないし、見積もりすら取れなかったんです。ただ既存のお客様を守るだけでした。

ーーどうやって打開策を見つけられたのですか?
【佐藤順一】当時、うちの売り上げは7億くらいでした。親父が私を会社に引き込むときに、都内でベスト10に入っていると言っていたのですが、実際は60番目ぐらいだったんです。それで上を目指そうと思っても、紳士協定みたいな縛りがあるから営業もできない。「どうするの、これ!?ずっと60番目だぜ」って、仲間と話していました。ところが、世の中がちょうどバブルに向かっていたので、六本木のキャバクラや銀座のクラブなど、新しい飲食店がいっぱいできたんです。新しいお店を開拓することは誰も文句は言わないですよね。どっかの得意先ではないわけだから。それで、新規開店するお店にアプローチをかけるのが、営業をやり始めたときの働き方でした。

バブル期には営業として奔走していた佐藤会長【撮影=オオノマコト】


ーーやっぱり営業スタイルはお酒の席ですか?
【佐藤順一】それはなかったですね。そのころはお酒が飲めなかったので、純然とした営業活動に徹していました。例えば「あの店のあの人が独立するらしいよ」と噂を聞くと、そこへ行って「お酒買ってください」みたいな話をするっていうのをずっと繰り返していましたね。基本的に銀座ってこれまでの人脈を大事にする排他的な街だったので、私は六本木に張り付いたんですね。六本木に張り付いてもう朝から晩までずっと営業していて、夕方5時に行ったら「明日の朝6時に来い」とか言われて。でも朝6時なら、留守番電話を聞き終わったころでちょうどいいかなと思ったり(笑)。営業成績もよかったんですよ。7億ぐらいあった売り上げが、バブル絶頂期には15億ぐらいになっていましたね。営業利益も1億近くあって、小売業としては成功していたと思います。

ーー倍に成長させたのですね。
【佐藤順一】ただ、そんなバブルも崩壊していくんです。そうすると、バブルを目掛けてできた店から潰れていくんです。つまり自分が獲得した店がすべて不良債権化していくわけです。そこも潰れた、こっちも潰れたと…。そうしていくうちに、生き残っている店が少なくなって、売掛金が取れなくなりキャッシュフローが回らなくなるんですよね。そして、1億ぐらいあった営業利益も、3年目ぐらいで1000万ぐらいに減っていて、いよいよ来季は赤字になるという状態にまで陥りました。そんな状況がバブルが崩壊して2、3年目ぐらいですね。私が社長になるちょうど3年前ぐらいです。

カクヤス王子店【写真提供=株式会社カクヤスグループ】


ーーそのころが一番どん底でした?
【佐藤順一】最初から知っていたら、頑張らないほうがよかったという話ですよね。体はつらいことやキツいことに慣れていましたけれど、メンタル的にはなんかバカくさいなっていうか、「何を一体やっているんだろう?」っていう虚しさが強かったですよね。それでもバブルは崩壊し続けて、飲食店は潰れていく。いよいよ来月の支払いができないかも?っていうところまで、追い込まれていました。

社長就任。ディスカウント戦略へ方向転換と無料配送のはじまり

バブル崩壊後にディスカウントストアへの方向転換に踏み切った佐藤会長【撮影=オオノマコト】

ーーそこまで行き詰まったときに、盛り返された際の秘策とは?
【佐藤順一】それが、ディスカウントの手法だったんです。実は、バブルが崩壊したころに、この業界で業績が一番よかったのがお酒のディスカウントショップだったんですよ。なぜかというと、スーパーマーケットは免許が付与されてないとお酒が扱えないし、小売の酒屋は紳士協定に縛られているから定価販売で売っているんですよ。そんななかで2、3割値引きして売るわけだから、売れるのは当たり前なんですよね。そうすると、郊外に広い駐車場と大型の店舗を持っていて、バンバン安売りする店舗が流行ってきたんです。

【佐藤順一】そんな光景を横目で見ながら、ふと考えました。当時のディスカウントストアはまだ現金商売が当たり前でした。我々はキャッシュフローに困っている…「これやったらどうかな?」と親父に相談しました。当時うちの親父は組合の役員を掛け持ちしていたので、「組合の役員がディスカウントに手を染めるなんてありえねぇだろ」と、首を縦には振ってくれなかった。「仲間を裏切れない」と言うけれど、「こっちが潰れても誰も助けてくれない」じゃないですか。それでずっと説き伏せて、半年くらいしてからようやく「もう好きにしろ。どうせ売れっこねぇわ」と言われたんです。何が変わったのかなと思ったら、組合の役員を全部辞めていました。「もう俺言われたくねぇから辞めるわ」と言って。それが、ちょうどそのバブル崩壊からディスカウントの手法を手がけるまでの、約1年弱ぐらいですかね。

ーーそのとき、先代が会社のすべてを佐藤さんに任せようと判断されたと?
【佐藤順一】たぶんそうなんですよね。「こいつ言っても聞かねぇから」っていう感じじゃないでしょうかね?ただ、うちも郊外型の広い駐車場と倉庫をもった店舗を考えたのですが、実はお酒の免許はほかに移すことが認められていなかったんです。例えば、“ドア to ドア”で100m離れてないとダメとか、何千人に対して免許1個とか制約がいろいろとあるんです。だから、ディスカウントストアをやろうにも、郊外にお店を出すこともできなかったんです。でもディスカウントストアをやらないと金が回ってこない…。そこで、出店の候補になったのが、うちで保有していた2つの免許のうちの1つを保有する場所で、「大安」というコンビニでした。ただ、このコンビニはとにかく立地が悪くて。車は入ってこられるのですが、どん突きなのでバックでお尻から出ないといけない。しかも人通りも少ない場所で、1日の売り上げも13〜16万円ぐらいしかなかった。正直こんなコンビニでもダメな場所で、ディスカウントストアをやっても大丈夫だろうか?という不安はありました。自分がお客だったとしても、郊外型の大きな店に買いに行くだろうなと思ってたぐらいですから。普通にやってもたぶん売れないだろうなと。それで、しょうがないから「配達でもやるかな」と考えたのが、カクヤスのお届けの原型だったんですね。

ディスカウントと同時に配送のシステムも始めたそう【撮影=オオノマコト】

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