ビニール傘は日本発祥!?世界初かつ日本唯一のビニール傘製造会社「ホワイトローズ」に江戸時代から続く老舗の歩みを聞いた!

東京ウォーカー(全国版)

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ビニール傘が日本発祥だということをご存じだろうか?コンビニなどで気軽に購入できるビニール傘。すっかり日本で市民権を得たビニール傘を開発した会社が浅草にある。老舗傘メーカー「ホワイトローズ」だ。当時は日本では売れず傘売り場に並ぶことさえ拒否されたビニール傘は、まさかの海を越えた先のニューヨークでヒットを飛ばす!世界初のビニール傘を生み出し、現在唯一の国産ビニール傘製造メーカー・ホワイトローズの代表取締役の須藤宰さんに、会社の歴史やビニール傘の開発秘話を中心に、ビニール傘がヒットするまでの紆余曲折を語ってもらった。

享保6年の創業より10代目となる代表取締役の須藤宰さん【撮影=オオノマコト】


世界初のビニール傘を生んだ「ホワイトローズ」は国内唯一のビニール傘製造メーカーだった!

――貴社について教えてください。
【須藤宰】私たちは国内で唯一ビニール傘を製造しているメーカーですが、国内で長くビニール傘を作り続けることは今ではとても難しい状況です。私たち以外、ほとんどのビニール傘は中国製であり、最近ではカンボジアなどでも製造されています。こうした傘は使い捨ての対象とされ、そのほとんどがコンビニで700円から1000円程度で販売されています。カラフルなものは1500円から2500円程度で、この価格帯がほぼ標準となっています。年間の消費量は膨大で、5000万本から8000万本と言われ、価格競争が激しい市場であり、それが人件費競争につながっています。ですから、国内でビニール傘を製造することは、ほぼ不可能です。

【須藤宰】かつては国内で製造していた企業が50社ほどありましたが、現在はうち1社のみが残っている現状です。これは、国内市場でビニール傘が売れない時期が25年ほどあったからです。その期間中、当社は生き残るために、シャワーカーテンや撮影用の機材の傘などを製造し、特殊素材の加工業などにも取り組んでいました。そのため、この時代の顧客との関係は、今でも少し残っています。その名残で、現在の当社のビジネスのうち、ビニール傘の製造が約7割を占めておりますが、残りの3割は異なる特殊加工素材の製造業になっています。

国産のビニール傘を作っているのはホワイトローズだけ【撮影=オオノマコト】


――会社の始まりは、徳川幕府の御用達とされた雨具店だそうですね。歴史についてお聞きしたいです。
【須藤宰】私たちの血筋は、武田信玄と武田勝頼の系譜につながるもので、おそらく武田家の血を引くと伝えられています。武田勝頼が織田信長に敗れたあと、その血筋は完全に断絶したという歴史的事実があるようです。ただ、そのなかで何人かが生き延びたようで、甲斐の山奥で落武者として潜んでいたそうなんですね。そして、その際に一部は真田家の方々に保護されたという話も伝わっています。そんなこともあって、私の祖父からは「もし、そのような縁があるときには、真田家との関係を大切にするように」と言われていました。現在、真田さんの傘屋は残念ながらありませんが、以前、当店は長い間、真田さんと取引をしていた記録が残っています。真田さんが私たちを意識していたかは定かではありませんが、私たちは真田さんを大切にしてきました。

店内には、先代の写真や賞状などが額縁に入れられ掲げられている【撮影=オオノマコト】


【須藤宰】当店は、享保6年に初代の武田勝政が江戸に出て「武田長五郎商店」として創業しました。もちろん、落武者が江戸でいきなり傘屋を開くというのは考えにくいことであり、おそらくは商人として修行を積んだあと、傘屋と刻みたばこの卸業で創業したという経緯だと思われます。刻みたばこの保管には乾燥した状態が必要なので、当時は油紙で包んで木の箱に保管していました。そして、傘も当時主流だった蛇の目傘や番傘は油紙で作られていたのです。そこで、2代目か3代目がその油紙に着目して、同じ油紙を用いてカッパのように羽織れる形のものを作り始めたんですね。現代のトラベル レインコートのようなものです。これは畳めるため、参勤交代の武家の方々の携帯用雨具として高く評価され、各藩や幕府からの仕事も受けるようになり、雨具の世界に進出していった歴史があります。

カラフルな佇まいが特徴のホワイトローズの実店舗【撮影=オオノマコト】


――当時、全国の大名が使用していたのですか?
【須藤宰】参勤交代は、全国の大名が江戸に出向かなければならない制度でしたので、遠くから来る者も近くから来る者も、旅の途中で雨が降る可能性があるので雨具が必要だったのです。ただし、参勤交代の際に傘をさして歩くことはあり得なかったんですね。頭にかぶる傘はよいのですが、蛇の目傘や番傘をさして参勤交代をすることは、武家の方々にとっては考えられなかった時代なのです。やはり、カッパ型が適していたわけですね。

ーーほぼ独占状態だったのですか?
【須藤宰】いいえ。江戸時代のことですから、売れる商品であれば、今で言うところのコピー商品や類似品が出回るのは当然のことでした。現代では法的な問題もありますが、昔の日本においては、そのようなアイデアに対して、比較的寛容で柔軟であったと言えます。売れるものは手仕事の職人たちによる生産であり、工場生産ではなかったため、生産力には限界がありました。そのため、競合他社が生まれてきても、大きな争いにはならなかったのです。そういう時代だったと思いますね。

匠の知恵と技術が生んだ最高のビニール傘。独自の開発ストーリー

――それから年月が経ち、ビニール傘も貴社が発明されたのですよね。
【須藤宰】そうですね。まず明治維新がきっかけで洋傘が日本に入ってきて、海外、特にイギリスからの影響で、私たちも布製の洋傘を作り始めました。和傘から洋傘への転換とも言えるこの段階ですが、その後、数度の戦争があり、太平洋戦争では9代目である父がシベリアに抑留されていました。昭和20年から24年までの4年間、シベリアでの抑留生活を送っていたため、帰国するまでの間に私たちのビジネスは後れを取ってしまっていました。当店は老舗ではありますが、ほとんどの従業員が戦争に参加し戻ってこないなか、8代目である祖父と母だけが家業を守り続けていたんです。そして父が戻り、「出遅れたから、何とか他社がやってないものを開発しなきゃいかん」と考たそうです。そこで最初に思いついたのが、進駐軍が持ち込んだテーブルクロスのビニール素材でした。このビニールを使って傘カバーを開発したのが原点になります。

再現した傘カバーを手にする須藤さん【撮影=オオノマコト】

傘カバーは、色落ちした染料を含んだ水滴で服が汚れるのを防ぐという、画期的な発想から大ヒットした【撮影=オオノマコト】


――この傘カバーは当時のものですか?
【須藤宰】これは再現したものです。当時は主に綿の傘が一般的で、防水性が乏しく色落ちしやすい特性がありました。新しい傘を使用すると色が雫と一緒に落ちるんですね。黒い傘なら白いシャツに黒い染みが付くことが、当たり前のようにあったそうです。この問題を解決するために、防水性が確保されるビニール素材を使い、傘にかぶせるシャワーキャップのような傘カバーを開発し、傘を濡らすことなく問題を解消することができました。このビニール製の傘カバーが初めてビニール素材と傘との最初の接点となり、昭和28年の朝日新聞にも記事が掲載されています。

朝日新聞に掲載された、傘カバーのヒットを伝える当時の記事【撮影=オオノマコト】


【須藤宰】ところが、その後すぐに、国内で合成樹脂や合成繊維が開発され、ナイロンという素材も登場しました。ナイロンは綿よりもはるかに防水性が高く、色落ちしにくい特性を持っているので、洋傘の素材として急速に普及していきました。このため、ビニール製の傘カバーの必要性が薄れ、私たちとしては新たなアイデアを模索しました。ビニールが水を通さないことはすでに実証されていたので、ビニールを傘の骨組みに直接貼り付けることで、完全な防水性を持つ傘を製造するプロジェクトを5年かけて完成させました。そして昭和33年ごろに、ビニールだけでできた傘、いわゆるビニール傘が開発されたのです。これが、ビニール傘の歴史になります。

【写真】日本初のビニール傘を手に、「ほとんどみなさんがご存じのビニール傘と変わらないと思います」と語る須藤さん。今でも理想的なビニール傘と言えるそうだ【撮影=オオノマコト】


【須藤宰】ビニール傘は、使い捨てで壊れやすいというイメージがみなさんに定着していると思います。でも、実際はビニール素材は非常に強靭なものなんです。ですから、道端で壊れた傘を見ても、ビニールが破れたり穴が開いていることはほとんどないと思われませんか?ほとんどの場合、骨組みが折れたり曲がったりして捨てられている状態なんです。つまり、強固なビニールに対して、骨組みが弱すぎて折れてしまっているというのが、大量生産されている輸入傘の実態なんですね。

【須藤宰】でも当時の私たちはすでにビニールの耐久性を十分に理解していたので、風が強く吹くと骨組みがたわむようにデザインされているんです。この当時、まだグラスファイバーやカーボンなどの素材は存在せず、すべて鉄で作られていました。業界ではこれをサクラ骨と呼んでいますが、板バネの構造を用いた工夫をして、ビニール素材の強さに負けない骨組みを考えて製作しているんですね。

花びらのような形をしたサクラ骨という独自の意匠【撮影=オオノマコト】

板バネの機能を果たすサクラ骨によって、強風を受けても負けないしなやかな骨組みの傘を完成させた【撮影=オオノマコト】


――この骨組みの考案者は、9代目のお父様ですか?
【須藤宰】ええ、この骨組みに関しては、おそらく骨組みの専門家と共同で開発したと思いますね。

――分業なのですね。
【須藤宰】そうなんです。この傘の柄部分と骨組み部分、そして素材の部分は、それぞれ別々のメーカーが開発しているんです。傘職人というのは、素材を選んで仕入れ、骨組みはその素材に合わせたものを発注し、柄の部分もデザインを発注して、最後にそれを完成させるのが、傘職人の仕事なんです。

――これはもう1本しか残っていないのですか?
【須藤宰】はい。本来ならビニール素材なので、長い年月が経つとベタついて最終的には粉々になってしまうんです。ただ、これはビニールの専門家でさえ驚くほど非常に優れた配合で作られているので、まだこうして形をとどめています。

日本では拒絶されたビニール傘が世界で受け入れられた!驚きの裏側とは?

――これだけ洗練された画期的な傘は、誕生当時大きな話題となったのでは?
【須藤宰】ところが、開発当初は私たちのビニール傘は日本国内で全く受け入れられませんでした。傘は布でできているのが当たり前、とされていたからです。そして、布の傘を作る職人の手を必要としないビニール傘は、業界を変える商品と捉えられ、傘店では布製傘しか売らないという暗黙のルールが生まれてしまったのも理由のひとつですね。百貨店の傘売り場にもビニール傘は置かれなくなりました。当時、傘は傘売り場や専門店で購入できる商品と認識されていた時代でしたから、私たちはビニール傘の販売窓口が閉ざされた状況に直面します。そこで、他業種や洋服店など人通りの多い店舗に委託販売して、顧客の目に触れるよう努めました。

透明なビニールが開発される前に誕生したビニール傘は、乳白色だったそう【撮影=オオノマコト】


【須藤宰】ちょうどそのころ、東京オリンピックが開催されており、アメリカの傘メーカーであるポーラキャッツ社のバイヤーが、「日本にビニールでできている傘があるらしい」と尋ねて来られました。そして当社の商品を見て「水に漏れない素晴らしい商品です。ニューヨークで販売しましょう」との話をいただき、輸出が始まりました。しばらくの間、当社の工場で生産されたビニール傘は輸出専用となりましたが、売れるようになったら、次はもっと安く製造する必要が出てきます。そこで、朝鮮戦争による特恵関税が残っていた台湾に工場を立ち上げられてしまったんですよ。関税がゼロで特別扱いされるため、人件費も安く、当社で製造するよりも格段に安価なビニール傘ができるようになりました。そうやって将来的に中国産ビニール傘が生まれる布石となる台湾に、ビニール傘の工場が出来上がってしまったのです。

――そうなんですね…。その後、中国製のビニール傘が登場したときの想いをお聞きしたいのですが?
【須藤宰】それは、時代の流れとして受け入れるべきだと思います。ビニール傘の生産量が中国に移ったというより、中国が世界の工場として台頭したことが要因です。当時、鄧小平氏が資本主義を取り入れて注目されました。ビニール傘の生産はその初期段階で早々に中国に移行したんです。すでに製造していた台湾の経営者が、中国本土に工場を設立したのがきっかけでした。

――当時50社あったビニール傘屋が、国内で1社になってしまった理由と関係していますか?
【須藤宰】関係していると思います。単純に中国との競争に勝てなかったからかと!

――話を戻しまして、ビニール傘は日本よりニューヨークで先に人気になったわけですが、ニューヨーク以外の都市でもビニール傘は売れたのですか?
【須藤宰】そうですね。実際、アメリカで傘をさすのは主にニューヨークです。西海岸ではほとんど傘の需要がありません。さらにヨーロッパには、アメリカを経由して伝わったようです。父がイタリアやイギリスに、ポーラキャッツさんと一緒にヨーロッパ旅行をして、マーケティングしに行った写真が残っています。

――当時のビニール傘は、すっぽり覆うような形の深い傘だったんですね。
【須藤宰】ニューヨークでは、風が強く雨が冷たく降ることが多いんです。そのため、当店が考案したのがこの「バードケージ」という傘で、骨組みの構造を工夫しました。これが当時のものです。透明なビニールが開発されていたので、傘の中にすっぽりと入るデザインとなりました。これが海外でバカ売れしましてね、非常に好評だったわけです。そういえば、イギリスの傘メーカー・フルトン社製と思われる“バードケージ風”のビニール傘を、先日亡くなった女王様が愛用されていたことが雑誌で報じられましたね。

ニューヨーカーに愛されたビニール傘は、頭がすっぽり傘の中に入る独特のフォルムをしていた【撮影=オオノマコト】


――当時はいくらくらいで販売されていたのですか?
【須藤宰】1ドル360円のころ、1ドルくらいで輸出していましたが、アメリカでは5ドルで販売されていたようです。

――5倍ですか!?
【須藤宰】ええ、そのような話を耳にしました。日本ではビニール傘を布製の傘と同等の2500円で販売しました。当時の大学の初任給は8000円から9000円でした。とても高価でしたから修理して使用することが一般的でした。日本製も中国製もどんな傘も、まだすべて手作りだった時代なので、人件費が価格に反映される商品でした。

――ちなみに、この「バードケージ」はまだ販売されていますか?
【須藤宰】この傘は僕が嫌いなので作っていません。この傘は相合傘ができないから(笑)。僕は相合傘のできない傘は絶対に作りたくないんです。「バードケージ」は個人主義の傘で、ひとりの人間が自分だけ雨から濡れないようにするための傘なので、情緒がなくてつまらないじゃないですか。

今回の取材を通して、ビニール傘は日本が発祥だったという事実に驚くと同時に、現在国内唯一で生産を続けている傘屋「ホワイトローズ」の歴史の長さにも驚かされた。江戸時代に開発した油紙製雨具から始まり、世界初のビニール傘を開発した「ホワイトローズ」。日本では売れないもののニューヨークでヒットを飛ばした経緯やビニール傘の誕生秘話は興味深いものだった。

この記事のひときわ #やくにたつ
・老舗でも新しいものを生み出すアイデア力が必要
・販売窓口が閉ざされてもあきらめずに新しい販路を見つけると、そこに新たなニーズやチャンスが生まれる
・いい商品を生み出せば後世にまで残る

取材・文=北村康行、撮影=オオノマコト

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