カレーの歴史が実に深い!!「なぜ人気に?」「いつ日本に?」ハウス食品に聞いたカレーの歴史と国民食になった理由がおもしろい!
東京ウォーカー(全国版)
1月22日が「カレーの日」であることをご存知だろうか。これは1982年(昭和57年)に、社団法人(現・公益社団法人)全国学校栄養士協議会が、子どもたちに好まれていたカレーを全国の学校給食メニューとして提供を呼びかけたことから制定されたという。
そこで、今回は「カレーの日」にちなんで、数々のカレー関連商品を世に送り出しているハウス食品株式会社の食品事業一部 ビジネスユニットマネージャー・山本篤志さんにカレーの歴史について話を聞いた。
――日本に「カレー」という食べ物が入ってきたのはいつごろなのでしょうか?
【山本篤志】日本人が初めてカレーを目にしたのは江戸時代、開国へ舵を切った幕末のころと言われています。当時のエリートたちが、西洋文化とともにカレーに触れていたようです。たとえば、遣米使節団の一員としてアメリカに渡った福澤諭吉は、『華英通語』という中国語と英語の辞書を購入して帰国し、カタカナで英語の読みと日本語の意味をつけたものを1860年(安政7年)に出版しています。その中で「Curry」は「コルリ」という読み方で紹介されていました。
【山本篤志】また、1863年(文久3年)にイギリスとの外交問題収拾のためナポレオン三世に助けを請うべく派遣された使節団は、途中インド人たちと乗り合わせます。随行した三宅秀(ひいず)の日誌に、彼らが夕日に向かって三度礼をしてから「飯の上に唐辛子細味に致し、芋のどろどろのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す。至って汚き人物なり」との記載があります。
――三宅秀の日誌の内容から察するに、当時はカレーに対していい印象ではない、おいしそうと感じてない様子がうかがえますが、そこからなぜ日本で食べられるようになったのでしょうか?
【山本篤志】江戸時代は、公には牛肉や豚肉を食べることが禁じられていたため、カレーが入ってきた最初のころはカエルの肉が使われており、明治の初めに発刊された『西洋料理指南』(敬学堂主人)にも材料として記載されています。
【山本篤志】明治時代に入ってからは、文明開化の象徴として牛肉が広く食べられるようになりました。その手軽な食べ方としてカレーが普及しはじめ、1872年(明治5年)に発刊された料理書『西洋料理通』(仮名垣魯文)には、そのレシピも掲載されています。ですが、このころのカレーはまだ主に外食(当時続々とオープンしていた洋食専門店)で食べられてはいましたが一般的ではなく、「流行りの食べ物」といった位置づけでもあったと思います。
――なるほど!牛肉の手軽な食べ方としてカレーが普及していったのですね。ただ、その時点では「流行食」的な位置づけだったのに、なぜ根づいていったのでしょうか?
【山本篤志】ひとつには「お米に合う」、つまり「ご飯がすすむ」メニューであるということだと思います。これは私の考えですが、日本人は昔からお米を食べるときに、お米の甘さに負けない塩味や辛さがあるものをおかずにして食べることが多いと思います。カレーも、ご飯の甘さに負けない辛さや刺激・旨みがあるという点が、日本人になじんだポイントなのかなと思います。
【山本篤志】また、お茶漬けやふりかけなど、日本には「ご飯の上に(何かを)かける」という習慣がありますよね。なので、同じように「ご飯の上にかける」というカレーも受け入れられやすかったのかなとも思います。あとは、ひと皿で完結するという、手軽さや食べやすさもあったでしょうね。
――確かに!「ご飯に合う」「ご飯にかける」ものが受け入れられやすかったというのは納得です。徐々にカレーが受け入れられていくなかで、ハウス食品はいつごろ創業されたのですか?
【山本篤志】1913年(大正2年)11月11日に、浦上靖介(うらかみせいすけ)が現在のハウス食品の前身である薬種化学原料店「浦上商店」を開業しました。ただ、このときの取り扱い品目には、カレー粉がありません。浦上商店がカレー粉を扱い始めたのは、1921年(大正10年)ごろに得意先からカレー粉の販売を委託されたことがきっかけです。
【山本篤志】その後1926年(大正15年)に、稲田食品製造所から「ホームカレー」の商標・工場・営業権などを譲り受けたことをきっかけに、浦上商店が「ホームカレー」の製造・販売を開始しました。
――「ホームカレー」は、どのような商品だったのでしょうか?また、販売してすぐに売れたのでしょうか?
【山本篤志】ホームカレーは粉末で、梅雨時期には湿って固まり返品されていたそうです。都会の食堂で「ライスカレー」は出ていても、当時はカレーを見たこともない人や食べたこともない人がまだ多く、地方では「薬くさい」「カレーって何?」と聞かれるような時代で、地方の問屋に売り歩いてもなかなか売れなかったようです。しかし、創業者が身を粉にして売り歩き、1928年(昭和3年)ごろには世の中に出回るようになりました。
【山本篤志】ちなみに、『日本で未だ誰も知らぬ「ホームカレー粉とは何?」一食唯だ二銭五里で出来る家庭ライスカレの粉、各地信用ある和洋食品店及び薬店にあり』と、1926年(大正15年)の大阪朝日新聞に出ていたという記録が残っています。
――その後、「ホームカレー」から「ハウスカレー」になっていったのですよね。
【山本篤志】そうです。「ホームカレー」は改良を重ねた結果、少しずつ売り上げを伸ばしていき、1928年(昭和3年)には新たに「ハウスカレー」に名称変更します。浦上靖代夫人から「日本には『ホーム』の概念はあらしまへん。『ハウス』だす」と言われた靖介は「これこそ日本人にぴったりの商標である」と確信したそうで、家のマークの新商標「ハウスカレー」が誕生しました。
【山本篤志】当時は、商店の店頭での試食宣伝や、荷車に飾りつけをしたお祭りの山車(だし)のような車をしたがえた宣伝行列、百貨店での試食販売など、PR活動にも力を入れていました。創業者は、製品開発はもちろん、「カレーをどう普及させるか」というところにも力を尽くしており、そのマインドは現在のハウス食品にも受け継がれていると感じています。
――その後も「ハウスカレー」をはじめ、カレー粉は人気を獲得していったのでしょうか?
【山本篤志】昭和初期まではカレー粉の発売元が急激に増加するなど、カレーが普及していきました。ですが、1941年(昭和16年)の太平洋戦争の開始から1945年(昭和20年)の終戦までは食糧統制のため、各メーカーともカレーの製造・販売が中止になってしまったのです。その後、「ハウスカレー」は1949年(昭和24年)に「即席カレー」へと名称を変更、製造を再開しました。
――戦後、またカレーが食べられるようになったのですね!
【山本篤志】はい、再びカレーが食べられるようになり、急速に家庭に浸透していきました。その理由のひとつは固形ルウカレーの誕生だと思います。簡単で便利な固形のルウカレーは、当時は湿りやすかった粉より、保存しやすく長持ちするというメリットがありました。また、深みのある味わいを出せるというのもメリットのひとつで、ルウカレーは徐々に食卓に浸透していきました。ちなみに、ハウス食品で初めての固形ルウは「印度カレー」です。
【山本篤志】その後は、給食のメニューに採用されるなどして、カレーが子どもから大人まで広く愛される人気メニューとなっていきました。
――カレーが子どもから大人まで愛される「国民食」になった理由は何だと思いますか?
【山本篤志】昭和初期のカレーは、水分が多めでシャバシャバ、辛い…というものだったようです。なので、どうしても大人中心の食べ物でした。ですが、1963年(昭和38年)に発売された弊社の「バーモントカレー」は“子どもも一緒に食べられるマイルドなカレーを”という願いから作られ、実際に爆発的なヒット商品となりました。
【山本篤志】カレーの味、香り、色はきちんと備えながら、辛さなどの強い刺激を抑え、マイルドなカレーに仕立てた「バーモントカレー」こそ、「カレーが国民食」になったきっかけなのではないかと本気で思っています!
ちなみに、ハウス食品では「カレーの日」をはじめとする冬の食卓を盛り上げるために、総勢500名に賞品が当たる「ほっこりおうちでカレー&シチューキャンペーン」を2024年2月9日(金)まで実施中だという。
2023年にはバーモントカレーが60周年を迎えたこともあり、同社の商品はこれからもカレーの新たな歴史を紡いでいくことだろう。
取材・文=矢野 凪紗
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