又吉直樹のベストセラー長編小説『人間』が文庫化された。『火花』『劇場』と、それまで青春の只中にいる若者が主人公であったのに対し、本作は執筆当時の又吉と同年齢の38歳。何者かになることに囚われ苦しんだ青春時代とその後の人生、さらに青春時代を共にした者たちとの当時から現在に続く葛藤を描くことにより、「人間」の存在や本質に迫っている。また文庫化に伴い、装丁の変更、大幅な加筆を行っただけでなく、「人間のテーマソングを作る」という動画企画までスタートしている。そんな又吉直樹に創作へのスタンスや、読書家としての本との付き合い方などを語ってもらった。
書き手になったことで本との距離が開いてしまった
――又吉さんが著書を出されるのは2020年4月の文庫『東京百景』以来となります。生活様式がこの期間でまるで変わりましたが、又吉さんと本の“距離感”って変わりましたか?執筆はもちろん、読者としての関係性も含めて。
又吉:『火花』を書いた後くらいから、ちょっと書店に行きにくくなった、というのはあります。『カキフライが無いなら来なかった』(09年)とか『東京百景』(13年)が出た時は、うれしくて書店に見に行ったりしたんですけど、『火花』の時はそういう気分になれなかった。そのあたりから書店に行く頻度は減ったかもしれないですね。
――『火花』は日本中を巻き込んでのブームになりましたもんね、「書店に行くのが怖くなった」みたいなことでしょうか?
又吉:職場がある街に行きにくくなるっていうことを聞くじゃないですか。あの感じに近いですかね、職場感が出たというか。本って面白いよな、本を売る場所って素敵だよなって幻想みたいなものがかつてはあったと思うんです。多分みんな、職場で働く前ってそんな思いを抱いていると思うんですけど、いざ実際に働き始めると大変な状況があったり、大変な上司がいたりとか幻想だけではない現実に直面しますよね。そういう風に自分の職場に近い場所になって、緊張感が出てきたんだと思います。
――楽しいだけの場所ではなくなってしまった?
又吉:芸人にとっての劇場も、楽屋にすごい先輩がいたりして楽しい場所ではあるけど緊張感のある場所でもある。楽しいだけの場所ではなくなったっていう意味では一緒かもしれないですね。休みの日に劇場に行ったりしないんですよ。それまではお客さん的な感覚が強かったんですけどそうじゃなくなった、ということかもしれません。
――本と開いてしまった距離はそのままなんですか?
又吉:でもコロナ以降、時間がとれるようになって、またいろいろ作品に触れる機会は増えました。海外のものとか亡くなっている人の本とか、近代文学とか読むようになってきています。
――又吉さんの活動はジャンルを大きくまたぐじゃないですか。お笑いがあって、小説やエッセイがあって、ドラマにも出られて。そんな又吉さんにとって「本」がいいなって感じるのってどういうところなんですか?
又吉:本は自分のペースで読めるというのがまずありますね。特に小説は、時間の流れが他のエンターテインメントに比べてゆっくりだと思うんですよね。200ページくらいの短い作品でも、人によっては数日から数週間作品と一緒にいることになる。テレビドラマにも言えることなんですけど、ドラマのいいところって1話見て次の話までにまでに1週間あることだと思うんです。「どうなるんだろ?」って期待できる時間があることによって、視聴者の普段の生活とドラマがあるという別の人生を結び付いていく。時間にしたら10話で10時間くらいなんですけど、数カ月そのドラマと共にいた、そんな実感を残してくれますよね。本も自分の日常や人生と作品が結び付きやすい。買って手元にあるものですからなおさらですよね。エンターテインメントには、それぞれの面白さや強みがあると思います。でも本の、自分で手に持って自分のペースで開けて、1対1でそれを読むことができるっていうのは大きいかなと思いますね。
わからない=面白くない、ではない
――『人間』ですが、純文学と呼ばれるジャンルになります。純文学って「難しい」という印象があるのですが…。
又吉:一言で純文学って言ってもいろんな作品があり、純文学の垣根を越えた作品もあると思うんで難しいところなんですけど、僕は、「物事を単純化せずに複雑なことを複雑なものとして尊重しているもの」が好きですかね。わからないことをわからないままにしてもいい。でも複雑なものとか難解なもの、わからないものは嫌われるんですよね。本でも映像でも、「それでなんなん?結果どうなったかを教えてくれよ」って思う人は多いと思うんです。でも僕が中学時代から読み始めた純文学の「好きやな」って部分は、難解なものや複雑なもの、わからないものを楽しむところなんです。その「楽しむ」っていうのも、楽しいとか笑えるとか心地よいものばかりじゃなくて、心地悪いとか気味が悪いとか不快であるとか、ネガティブな感情がもたらされることもあるんです。でも、そういうのも含めてちゃんと尊重されている、守られてるっていうのが純文学の良いところだと思います。
――たしかに、どんどん一般的な感覚に寄り添うというか、共感を呼ぶものに流れて行ってしまうところはありますよね。
又吉:僕は、複雑なものは複雑なものとして存在していていいと思うんです。簡単なものを複雑に言ったら「カッコつけてる」とか「わけわからん」とか言われて、逆に複雑なものを簡単にすると賢いって言われて称賛されたりするじゃないですか。あれって、クラスで明るくて誰にも優しい人気者をみんなは価値があるものやって言って、端っこで何を考えてるかわからないヤツを排除しようとか、「あんな奴学校来なければええねん」って言ってるのと同じことなんじゃないかと思うんです。純文学は、世の中の複雑で難解でわかりにくいものを、その形のままで認めるジャンルであり、必要じゃないかなって思います。共感できる=面白い、共感できないもの=面白くない、と思い込み過ぎずに、共感できないものは共感できないものとして把握すべきやし、共感できないものに触れることは、感情の種類を増やしてくれるものでもあると僕は思うんです。
――又吉さんが一回読んで「うーん、わからん」という作品に出合った時、どういう方法をとるんですか?
又吉:まずはわからない理由を考えるんですけど、大体、初歩的な部分で引っかかっていることが多いんですよね。なので、わからない言葉とか6割くらいの理解でよしとしてきた単語とかをちゃんと辞書ひいて、こういう意味やんなって、まず言葉を理解していきます。で、人物名が出てきたら「誰やねん、これ」ってどういう人なのか調べたり、仮にその登場人物がミュージシャンならその人の音楽を聞いたりして。すると、「なるほどな、こういう音楽でこういう音楽にひかれる登場人物なんや」とか、「作中人物のイメージとちょっと違ったな、このギャップがこの人物なのか」とか、「なんでこの作中人物はこのミュージシャンにひかれたんだろう」とか糸口が見えてくる。パーツをどんどん補強していくと見えてくるものが変わってくるんです。
――それってめちゃくちゃその小説を楽しみ尽くしてますよね。
又吉:そうですね。このあいだも1冊読んだんですが、わからない単語とか危うい単語とか、「自分の言葉で説明しろ」って言われたら説明できるけど本当に合ってるかなっていうところが、23、4個ありましたね。リスト作って、意味調べて横に書き出して……それを読んでるだけで何となく作品全体を思い出せるくらいになりました。
――誰に教わるわけでなく、又吉さん自身でそういう読み方を開発したんですか?
又吉:難解でかっこつけてるものやろって、純文学はバカにされてきたところがあるんだと思うんです。でも共感できないもの、理解できないものを軽視することは、ある意味ですごい傲慢なんじゃないかなって。だって、自分には知らない世界がない、という前提の世界の話じゃないですか、私がわからないものは面白くないよって。中学生の時の僕で言えば、本は年上の人が書いているものだし、僕が知らないことが書かれていて当たり前だし、僕が知らないことを知りたいって欲求があるし、わからないことがあって当たり前だから、それはちゃんと調べて理解したいって欲求があって、それが未だに続いてるんです。だから、わからない=面白くないはありえないんです。
――読書に限らず、作品を批判する前に自分の至らなさを考えてみた方がいいっていうのはありますよね。
又吉:そうですね、僕が本に対する時はそういう気持ちです。逆にわかりすぎてしまった時に物足りなさを感じる、そういう感覚が初めから備わっていたなって思います。でも共感できる面白さ、安心感もありますよね。それで面白い作品もいっぱいあるし好きなんですけど、でも共感が8割とかあったとしても1割2割はわからない、自分に発見をもたらしてくれることが書いているとより好きだなって。5割わからなくてもいいと僕は思っていますね。