1990年代にテレビ放送されていた料理対決番組「料理の鉄人」で、和の鉄人として絶対的な強さを誇った和食料理人・道場六三郎さん。そんな巨匠が自身の名前を冠した会社「道場六三郎事務所」が、“もっと身近で・もっと気軽に”というコンセプトのもと、2月に千葉県松戸市に新店となる「懐食みちば」をオープンさせた。今回は、「懐食みちば」をオープンするにいたるまでのストーリーや裏での努力、道場六三郎という料理人の心意気などについて、代表取締役の伊藤永さんに話を聞いた。
和の鉄人・道場六三郎が立ち上げた「道場六三郎事務所」とは
――「道場六三郎事務所」が、どのような会社なのか、教えてください。
【伊藤永】 「道場六三郎事務所」は、ご存知のとおり道場六三郎が立ち上げた会社になります。皆さんは、料理の鉄人で“和の鉄人”として活躍した料理人として、印象に残っていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。めちゃくちゃ強い料理人で、負けたのは数回しかありませんでしたから。
――圧倒的に強く、最強というイメージでしたよね。
【伊藤永】はい。和食といえば、やっぱり道場六三郎がトップだったなと思います。当時、放送されていたのが家族みんなで見ていた時間帯だったので、子どもがなりたい職業で料理人の人気が急上昇したほどでした。道場先生がおっしゃるには、3位になったそうですよ。今では考えられないんですが、それぐらい影響力があった番組だったんですね。
【伊藤永】道場先生と先生のもとで活躍していた料理人が、銀座で「ろくさん亭」と新しい松戸の店と同名の「懐食みちば」という2つの名前でずっとお店をやっていたんです。ところが、コロナ禍で銀座だけでなく日本中の飲食店がダメージを受け、道場六三郎事務所にも影響を及ぼすようになりました。2店舗が銀座で位置関係が近かったので、店舗をひとつにまとめて耐え忍ぶことにしたそうです。これがコロナ禍までの話になります。実は、私がこの会社の代表に就いたのが昨年の11月なので、私が会社のヒストリーを語るのはおこがましいかと。ですので、簡単に語らせていただきました(笑)。
――そうだったのですね。まだ短いですね。
【伊藤永】私は、もともと「かつや」というとんかつチェーンの「株式会社かつや」の設立時の社長なんです。前職と同じ和食ですが、単価490円だったものが約40倍の2万円になったので、考えることも全然違うわけです(笑)。
【伊藤永】就任のきっかけは、前職を退職したところ、会社から「道場さんの店の事業の継続性を考える際に、新しい視点が欲しい」とお声がけいただいたことです。道場先生の後継者という大きな問題を解決する必要があったんですね。「銀座ろくさん亭」1店舗でやっていくと、やはり道場六三郎がいてこその店、会社になってしまうんです。道場先生は、お弟子さんの独立をどんどん助けてあげるような方で、「独立していいよ。応援するよ」と言って、これまでに多くのお弟子さんが独立されていったんです。
【伊藤永】道場先生の技を継いでいる料理人は山ほどいるのですが、「銀座ろくさん亭」自体に、道場先生の後継者、「こいつが俺の次のろくさん亭のボスなんだよ」と呼べる方がいらっしゃらないんです。そのクラスの方は、皆さん自分の店を持たれて、独立をされてしまったんです。その方が今「銀座ろくさん亭」にいれば、先生の後継も安泰なはずなんです。でも、やっぱり料理人っていうのは、“自分の店を持つ”というひとつの夢がありますからね。
――事業継続をしていくうえで、大きな問題ですね。
【伊藤永】そうなんです。今まで独立された方に戻ってきてもらうのが手っ取り早いのですが、そうはいかないじゃないですか。そこで、考え方を変えることにしました。腕を上げたお弟子さんが、道場六三郎事務所のなかで自分の店を持ち、そこで名を上げていかないと。「和食料理人には道場六三郎事務所の出身者が多い」ではなく、「道場六三郎のところに、日本を代表する料理人が集まっている」という状態にしないといけない。そのように大きく方向転換しました。
道場六三郎の技や味を、“もっと身近で・もっと気軽に”体験できる、新店「懐食みちば」
――新店の「懐食みちば」を作るきっかけになった出来事はあるのでしょうか?
【伊藤永】初めてお会いしたときに、道場先生が家で作ったカボチャの煮物をタッパーに入れて、「食べてみて」って持ってこられたんですよ。まぁ、カボチャの煮物ですから、特に考えることもなく「ありがとうございます〜」って。先入観もなく楊枝で刺して口に運んだら、「なんだこれ!?」って味わったことがないくらいおいしいんですよ!心を撃ち抜かれました。
【伊藤永】私は、勝手なイメージで、道場先生の料理は高級なものだと思い込んでいたんですね。だから、カボチャの煮物のようなよく親しんでいるお惣菜を食べたときに、「んん!?なんか全然違うぞ!?」っていう驚きが、すごく押し寄せてきたんです。「これって、要するに料理人の腕ってことか!」と気づかされたんですね。
――差があるとしたら、そこしかないわけですものね。
【伊藤永】それで、この驚きを多くの人に知ってもらえたら「料理人かっこいいね」って鉄人の時代に言われたように、「料理人すごい!」ってなるんじゃないかなと思ったんです。「高級、いい食材です」っていう食材は世の中にいっぱいあるけど、和食でフォーカスされる料理人の方は少なくないですか?洋食はいますけどね。「和食料理人が料理すると、いつもの献立がこんなにおいしくなるんだよ」っていうことを、広めたいですよね。ひとつのメニューを作れるようになるために、職人がどれだけの時間を費やしてきたか。その結果がテーブルの上にあるんですよ。だからもうちょっとフォーカスされてもいいんじゃないかなと思います。
【伊藤永】今でもあの味を思い出すと、胸を打たれますね。本当に衝撃的でした。「どうやったらおいしくなるんですか?」って聞いたんですけど、「普通に作ればこうなるんだよ」って。「料理人だからさ。わかっているヤツは、みんなこれができるんだよ」とおっしゃったんです。そこで、「先生、目指すものってなんですか?」って尋ねると、道場先生は心を撃ち抜かれた私を見て喜ばれていて。「そうやって“おいしい”って食べてくれて、喜んでくれている人を見ることが、僕の仕事のすべてだから、そういうことを多くの人に体験してもらえたらいいと思っているんだよね」とおっしゃったんです。
――道場さんはYouTubeでも、家庭料理の作り方をご披露されていますよね。
【伊藤永】そうなんです。こうやると、いつもの家庭料理がおいしくなると、技を惜しげもなくYouTubeで見せているじゃないですか。道場先生は「コロナでお店に来られないんだったら、家で作れる方法を教えてあげたいんだよ」とおっしゃるんです。「おいしいものを食べて元気になってもらいたい。みんなに喜んでもらいたい」という考えが先にあるんですね。それを知ったときに、「道場先生が日頃抱いている思いを具現化するほうが大事なのでは?」と、ふと思って。
【伊藤永】それで、今年2月に“もっと身近で・もっと気軽に”というコンセプトで、新店の「懐食みちば」をオープンさせたんです。道場先生に「昼3000円、夜9900円でやる店をやりたい」とお伝えしました。食材はいわゆる高級食材を使うのではなく、もっと廉価なものを使う。でも道場の料理人が作れば、この廉価な食材がこんなにおいしくなると、食べてくださるお客様にも伝わると思ったんです。まさにカボチャの煮物ですよね。
【伊藤永】高級食材を食べておいしいのは、高級食材だから、ある意味では当たり前じゃないですか。でも、普通の食材をおいしく調理したときに、料理人ってより輝くんだろうなって思うんです。だから、身近に気軽に行きやすい価格で提供するけど、「銀座ろくさん亭」の技を持っている料理人がやることにすごく意味があるんです。
――なぜ松戸にお店を出されたのですか?
松戸という場所は、20〜30年ぐらい前に開発が進んで人口が増えた街なんです。そのころ20代後半〜30代前半だった方が、マンションや家を購入されているんですよね。ご年齢的に、料理の鉄人世代の方が多くお住まいになっているんですよ。道場六三郎という料理人を知っている人と、知らない人が同じように料理を味わっても、やはり道場六三郎をご存知の方がお召し上がりになったほうが、「道場先生の料理を食べられているんだ」という喜びがあるのでは?ということも鑑みて身近な立地ということで選定しました。
――確かに、道場さんの存在、料理を知っているという人の中で、食べられる体験ができている人はごく僅かですよね。
【伊藤永】そう思いますね。ですから、まさに予約を始めたときに、あっという間にランチの予約が埋まってしまったんですよね。当初、様子見で予約数をある程度制限したのと、オープン記念で2000円に割引いたという理由もあるんですけど。
――それでも普通に考えたら、2000円はちょっと高めですよね。
【伊藤永】最初、ランチで3000円ってハードルが高いと思っていたんです。だから、蓋を開けてみて「需要がこんなに違うの?」と驚きました。私は、前職で490円と500円の違いをずっと突き詰めてきたので、まず2000円に設定してみたんですけどね。ところが、道場の味が2000円で楽しめるということで、あっという間に予約が埋まって。今もランチは予約が取りにくいですが、ディナーは席にゆとりがあるので、こまめにチェックしていただければと思います。
――道場さんは、それに対して何かおっしゃっていましたか?
【伊藤永】ランチの予約状況をご覧になられて「期待が大きいな。その期待に応えなきゃいけないな」と。「本当にありがたいけど、本当にその期待に応えられるのか?俺たちは?」と、責任感も持たれていらっしゃいました。初日は厨房に入られて「もっと、もっと、いいお店にできるよ。お客様の期待はもっともっと高いと思うから、お前らもっと頑張れ!」と叱咤激励されていました。納得はされていますが、目標は高いので道場先生らしいなと思いました。
――オープン後のお客様の反応は、どのように感じていらっしゃいますか?
【伊藤永】反応はいいなと思っていますが、手前味噌になってしまうので、あんまり言えないですけど(笑)。でも、お客様が会計されるときに、「次の予約を取りたい」という方が、毎日何名もいらっしゃるんです。もちろん予約が埋まりやすいという理由もあるとは思います。でも、召し上がっていただいたばかりなのに、またすぐ次のご予約を取りたいというのは、本当にご評価いただいている証拠だなと感じています。料理人たちもうれしがっていますね。
――空間を含めて、体験価値がかなり高そうですよね。
【伊藤永】そうですね。スーパーマーケットを突き抜けた奥に、道場六三郎の店があるとは思わないですよね。しかも、扉も無機質な重厚なイメージなので「開けていいのかな?」と戸惑いながら開けるじゃないですか。するとスーパーマーケットの奥に異空間が待っているんです。
【伊藤永】店内は、厨房を囲むようにカウンターテーブルがあるので、すごくオープンになっています。目の前で職人たちが料理を作るので、食材を調理する香りや音、熱など、その場の雰囲気がライブですごく伝わるんですよ。「銀座ろくさん亭」は厨房が奥にあるので、道場先生の繊細な技を見ることができるのはここだけなんです。
【伊藤永】先日、あるお客様から「映画を観たあとの感覚に近いね」という感想をいただいたんですよ。帰るときに扉を開けると現実の世界に引き戻されるそうです。道場の味が、わりと手に届きやすい値段で楽しめる空間にいろいろな要素が絡まって、 “特別な”という雰囲気が醸し出せているのかもしれませんね。