純米酒率は日本一!日本酒プロデューサーが語る宮城の日本酒の特徴と歴史

東京ウォーカー(全国版)

宮城の日本酒の起源を辿ると、その始まりは戦国時代、伊達政宗公が仙台藩の当主だった時代まで遡ります。今でこそ全国的に名高い蔵元が多く存在しますが、実は他県のよい部分や独自の技術を活かしつつ、変遷を遂げてきました。

今回は日本酒プロデューサーである上杉孝久さんにインタビュー。日本酒そのものの歴史を紐解きつつ、宮城の日本酒を深堀りしていくことで、新たな発見ができるかもしれません。

日本地酒協同組合前専務理事で日本酒プロデューサーの上杉孝久氏


そもそもの日本酒の起源とは


まず、酒というものが神さまと対話をするためのものであったということをベースとして知っておいてほしいです。卑弥呼の時代には神さまと神さまに仕える人だけが、主にのむことができました。

酔っ払っているという状態は、神さまが乗り移ったということ。いわば憑依現象のようなかたちです。楽しむためではなく、神さまと対話をするツールだったんです。これを押さえておくと、日本酒の見方がちょっと変わってくるんですね。

平安時代の書物「延喜式(えんぎしき)」には式三献(しきさんこん)という宴会儀礼の基本が記されています。例えば5人で宴が始まる際に、小さな盃から順に全員で回してのみ、その後大きな盃を回していく。神さまにもらったお米でつくった酒を「頂く」わけです。

お酒がのめない人は、口だけつけて隣の人に回したり、従者にのませたりもしていたようですが、この儀式が終わるまでは、歌ったり踊ったりすることができなかったんですね。

諸説ありますが、婚礼の際に行われる「三々九度」や、酒席に遅れて来た人に酒をすすめる「駆け付け三杯」もこの名残だと言われています。

【写真を見る】「式三献」に使われた磁器の盃


このような儀式は、時代が下るにつれて形骸化していきます。鎌倉時代になると、家庭でも酒をさかんにつくるようになりました。鎌倉時代は刀を持った御家人の時代なので、酔っぱらうと斬り合いになってしまう。戦になりかけたこともあったそうです。

あまりに人が死んでしまうので、これはよくないということで、幕府は「家で酒をつくってはいけないよ」という「枯酒(こしゅ)禁令」を出しました。各家で、神さまに捧げる酒をつくる1壺だけを残して、それ以外の壺は全部割ってしまったんですね。3万個以上の酒壺が割られたそうですよ。今も神奈川県の由比ヶ浜に行くと、その欠片を拾うことができます。

「枯酒禁令」で割られた酒壺の欠片


室町時代になるとある程度の生産量を確保できるようになり、一般の人々にも酒が浸透します。幕府からお寺、神社、公家まで皆が酒のみになりました。酒毒(アルコール中毒)で亡くなった将軍もいたほどです。酒とのつながりを追っていくと、新たな歴史を垣間見ることができますね。

伊達政宗公と官城の酒


宮城の酒造りが始まったといわれているのが1608(慶長13)年。伊達政宗公が大和(奈良)から酒造りの技術者を呼び、御用蔵をつくりました。それと同時に民間の蔵もつくったのです。いわば酒造りの技術を競わせ、酒質の向上を図っていたんです。

さらに、伊達政宗公は発酵食品に対して非常に造詣が深かったそうです。特に味噌は戦の重要な携帯食料。豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵の際に仙台藩の味噌が長持ちするということでかなり重宝されました。3年熟成させていたそうです。こうしたエピソードからも伊達家に発酵技術が根付いたことを裏付けています。

お酒を携帯していたという逸話もあります。明治になってから仙台で発見されたのですが、印籠の中に粉末のお酒が入っていたそうなんです。「仙台叢書(そうしょ)」にも記述があるのですが、お米を干したものを細かく砕き、それをみりんと焼酎とで練り、団子にして乾かす。さらにそれを粉末にしたものを携帯していたようで、粉末のものを溶かすと2升もの酒になったそうです。

また、宮城は蔵王や栗駒山、船形山など山々に囲まれていることもあり、良質な伏流水が流れていました。よい酒をつくるのに適した土地だったともいえますね。

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