小山薫堂さんと茶川竜之介から得たヒント
熊本県のPRキャラクター「くまモン」の生みの親として知られる放送作家の小山薫堂さんと、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の主人公のひとり、茶川竜之介。まるで共通点のなさそうなこのふたりをモデルにして、二足のわらじを履く道を選んだ人がいる。グラフィックデザイナーの中村晋也さんだ。
小山薫堂さんが、東京・神谷町にあるオフィスの受付としてパン屋「オレンジのバイテン」を開いていることは、あまり知られていない。「事務所に受付嬢を置きたい。でもお金がかかる」という課題をクリアするために、2007年、「受付を兼ねたパン屋」が誕生したと過去のインタビューで明かしている。
一方の茶川竜之介は、『ALWAYS 三丁目の夕日』のなかで、小説を書きながら駄菓子屋「茶川商店」を経営する。もともとこの映画を観て、「ほかの仕事をしながら、駄菓子屋するっておもしろそうだな」と感じていた中村さんは、10年以上前のある日、小山薫堂さんのパン屋さんが繁盛していると知って、こう思った。
「これ、駄菓子屋でもいけるんじゃ!?」
中村さんが、西東京市の西武柳沢駅近くにグラフィックデザイナーとしての事務所を兼ねた駄菓子店「ヤギサワベース」をオープンしたのは2016年4月。それから10年、中村さんは店舗のレジ横に置いたパソコンでデザインの仕事をしながら、今日も小銭を握りしめた子どもたちに「おやつカルパス」(15円)や「みつあんず」(40円)を売っている。
美大を出て、スナックのボーイに
経済産業省のデータを見ると、2021年の時点で全国に約6300カ所にしかない駄菓子屋だが、1970年代には13万軒を超えていた。1974年、東京の荻窪で生まれ、大学を出るまで荻窪に住んでいた中村さんが子どもの頃にも、駄菓子屋は身近にあった。
「小学校2、3年生の時に住んでいたアパートのすぐ近くに、バラック小屋みたいな駄菓子屋がありました。僕、小学校から私立で地元の小学生との接点がなかあったから、家から様子を見て、ほかの子どもたちがいない瞬間を狙って通っていました。鉢合わせると『お前、誰だよ』っていじめられるんですよ」
ほかにも「新宿中村屋」と看板を掲げる駄菓子屋や、店番をしているおじいさんの気分次第で値段が変わる駄菓子屋もあったと笑う。
しかし、当時は特別な関心を持っていたわけではない。中村さんは幼い頃から絵を描くのが好きで、6年生の時、藤子不二雄の自伝的マンガ『まんが道』を読んで以来、マンガ家を目指して一直線だった。
初めて集英社のジャンプ編集部に作品を持ち込んだのは、高校3年生の時。多摩美術大学芸術学科に進学してからもジャンプ編集部に通い、担当編集者がついてデビューを目指すことに。しかし、プロへの道は険しかった。
「僕、マンガオタクで懐古主義なので、古いマンガが好きなんですよ。その頃は手塚治虫に傾倒していて、『ブラックジャック』や『ブッダ』『火の鳥』の影響を受けて、社会に対するアンチテーゼのような漫画を描いていました。その作品を持っていくと、担当の編集さんから『まだ若いんだから、もっと楽しいの描いてよ』って言われてましたね」
気づけば大学4年生、周囲がどんどん就職を決めていくなか、「勤労意欲がない」という中村さんはなんのあてもなく卒業を迎える。同級生たちに会うと、みなすっかり「社会人」としての話題になる。ひとり取り残されたような焦りを感じた中村さんは、母親が経営するスナックのボーイに就いた。
大手企業に就職するも半年で退職
スナックの仕事は、「現実」を知るうえで役に立った。どんなに立派な肩書きを持っている人でも、酒に酔えばだらしなくなる。普段、会社でふんぞり返ってそうな人も、若い女の子の手を握り、ニコニコ楽しそうにしている。「人間ってそんなもんだよな。偉い人も、そうじゃない人も、みんなたいして変わらないな」という気づきは、その後、人付き合いをするうえで中村さんに大きな影響を与えた。
スナックで働き始めて半年ほど経った時、常連のアニメ制作会社の社長に、マンガ家になりたかったという話をした。すると、「うちで働きなよ」と言われて、就職を決める。
しかし、月給10万円、残業代ゼロで会社に何日も寝泊まりするような生活で、働き始めて半年も経つとげんなり。そのタイミングで、会社の取り引き先だった大手映像制作会社の知り合いから「君、おもしろいからうちに来なよ」と誘われて、転職。
スナックのボーイから1年で、「給料がめちゃめちゃいい」業界の有名企業へ。はたから見れば羨ましがられそうな展開ながら、ここもわずか半年で退職した。
「めっちゃ体育会系で、つらかったんです」
せっかく大手に就職したんだから、と無理に頑張ることをしなかったのは、企業名やブランドに囚われなかったからだろう。そう、「みんなたいして変わらない」のだ。
アニメや映像のような大勢の人間が関わる仕事に懲りた中村さんは、「ひとりでフィニッシュまで持っていけそう」というざっくりとしたイメージで、グラフィックデザインを学ぶ専門学校に入学。1年後、富山の広告代理店の東京支社に就職を決める。ところがそこも半年で退職し、ようやく腰を落ち着けたのが、企画制作部門を持つ印刷会社だった。
「その会社は、NPOとか公共団体とか、メーカー以外の仕事が多かったんです。だから、広告が売り上げにどう影響したかを査定されるようなこともなく、穏やかに広報啓発ツールを作っていたので性に合っていました」
子どもふたりを育てるシングルファーザーに
グラフィックデザイナーとして3年ほど働いていた2002年、会社が2社に分かれることになり、同じタイミングで先輩と独立。その2社から仕事を請ける形で、安定した生活を送るようになった。
西東京市の西武柳沢駅の近くに引っ越したのは、2007年。結婚し、子どもが生まれて新居を構える際、慣れ親しんだ荻窪の近くで物件を探していて、不動産屋に案内されたのがきっかけだった。
「すぐ近くに青梅街道が通っていて、荻窪まで車ですぐなんですよ。しかも、西武柳沢駅を降りてすぐのところに八百屋と本屋があって(本屋は後に閉店)、東京にこんなローカル感のある町がまだあるのかってビックリしたんです。駅前から続く商店街の雰囲気も気に入りました。オフィスは神楽坂で、西武柳沢駅から50分弱で通勤できるのもよかった」
それから時が流れ、2011年3月11日。東日本大震災が、中村さんの人生を変える。その頃、中村さんは離婚をして、シングルファーザーとして小学校2年生の娘と3歳の息子をひとりで育てていた。
地震が起きたのは、クライアントを訪ねて有楽町の駅を降りたとき。中村さんは、誘導されるままに皇居近くの公園に避難した。そこで1時間ほど待機したあと、徒歩で神楽坂のオフィスに戻る。先輩や同僚から話を聞いて、初めて大変な災害が起きたと理解した。
子どもたちは大丈夫なのか……。保育園も、小学校も、電話がまったく通じない。電車は全線止まっているため、中村さんは歩いて帰ることにした。少しでも早く帰るため、途中で友人の家に寄り、自転車を借りる。ところが道路は車、歩道は人でいっぱいで、自転車に乗ることができない。友人の自転車なのでどこかに置いておくこともできず、自転車を押しながら、歩くしかなかった。
焦りが募る。歩き始めて6時間が経った頃、娘の同級生の親から、娘と息子を預かっていると連絡があり、大きく息をついた。同級生宅についたのは、22時。ふたりの子どもは、ケロッとしていた。同級生宅のテレビには、福島第一原発から煙が出ているところが映っていた。