駄菓子を売るデザイナーの仕事って?二足のわらじを選んだ「ヤギサワベース」店主、その理由とこれからの夢
東京ウォーカー(全国版)
「子どものそばで仕事をしたい」
「東日本大震災は、僕の人生観を変えました」と中村さんは振り返る。
「なにかあったとき、親が子どもの近くにいないってすごく不自然というか、違和感あるなと思ったんですよね」
このとき初めて、中村さんは「自分が住んでいる町で、子どものそばで仕事をしたい」という思いを抱くようになった。
震災を機に、「地域」についても意識するようになった。それまで、シングルファーザーとして保育園や学校の保護者の集まりに顔を出していたものの、それは親の義務と捉えていた。しかし震災当日、同級生の親が子どもたちを預かってくれたことで、地域住民とよい関係を築くことの大切さを実感したのだ。
それからは、子どもの学校や保育園の父親が集まる「親父の会」に顔を出したり、地元のお祭りで神輿を担いだりするようになった。「もともと人間がそんなに好きじゃない」という中村さんだが、地域との関わりは懸念していたよりもずっと明るくサラリとしていて、次第に居心地のよさを感じるようなった。
神楽坂のオフィスに通い続けていた中村さんが、あらためて「この町で仕事をしたい」と感じるようになったのは、震災から2年後。シングルマザーの麻美さんと出会って、再婚した。麻美さんは企業に勤める傍ら、副業でジャズ歌手をしている。日中は仕事で家を空けることが多いふたりが気にかけていたのが、子どもたちの遊ぶ場所だ。
「僕らが共働きなので、学校が終わったあと、うちの子が共働きじゃない友だちの家に遊びに行くんですよね。いつも特定の家にお世話になるって、気を使うじゃないですか。自分がこの町で働いていたら、子どもたちが遊びに来られる環境になるのになと思いました」
3つの点がつながった日
近隣に顔見知りが増え、地域に愛着を感じるようになっていたこともあり、中村さんは本腰を入れて事務所開設に動き始める。
当初は、先輩と経営している会社の支店のような形で、自宅で仕事をしようと考えていた。ちょうどその頃、知り合いから誘われて、2015年10月、西東京市主催の創業スクールに通い始める。会社の経理や事務については先輩に任せていたため、支店を立ち上げるのを機に学んだほうがいいだろうと思ったそうだ。西東京市で仕事をするにあたり、行政の担当者やこれから地元で創業しようという人と知り合う場としても魅力だった。
このスクールでは、最終回に創業のアイデアについてプレゼンをすることになっていた。「ただ自宅にオフィスを設けるという話をしてもつまらない」と感じた中村さんの脳裏に、ある日の会話が蘇る。
「クライアントとの飲みの席で、駄菓子屋兼居酒屋がどこかにできたという話を聞いて、めちゃくちゃいいなと思ったんです。昼は普通の駄菓子屋として営業して、夜は大人も集う居酒屋ができたらおもしろいよねっていう話で盛り上がりました。そのとき、ガチではなくて、趣味とシャレの延長上みたいな駄菓子屋さんをやりたいなと思ったんですよね」
続いて、地域の先輩から聞いた話も思い出した。それが、冒頭に記した小山薫堂さんの「オフィスの受付を兼ねたパン屋」。
駄菓子屋兼居酒屋、受付兼パン屋ときて、中村さんが最後に思い浮かべたのが、好きな映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の主人公のひとり、茶川竜之介。これで3つの点がつながり、創業スクール最終回の日、中村さんはデザイン事務所兼駄菓子屋のプレゼンをした。
「審査員に銀行の人がいて、苦笑いしていたのをすごく覚えています。『特にコメントありません』と言っていました(笑)」
審査員の反応は気にならなかった。当時、中村さんの子どもが小学校2年生だったこともあり、「これで息子も遊びに来られるな」と、自分のアイデアに手応えを感じていた。
想像以上に簡単だった駄菓子屋の開業
デザイン事務所兼駄菓子屋を開こうと場所探しを始めてすぐ、西武柳沢駅北口から徒歩5分のところに手ごろな物件を見つけた。商店街の一角の路面店で、6坪ほど。コンパクトにすれば、自分の仕事用デスクと駄菓子を並べる棚を置くことができそうだ。まるでなにかに導かれているような展開で、「これはもう実行するしかない」と腹をくくる。
ところで、駄菓子屋を開くにはどうしたらいいんだろう?調べたところ、必要な手続きは地域の税務署に「開業届を提出」だけでいいことがわかり、拍子抜けした。
駄菓子は、ネットで見つけた八王子市にある卸問屋で仕入れた。どれぐらいの種類と数が必要か見当もつかず、開業に際して50種類、8万円ほどを投じた。そのなかには、中村さん自身が子ども時代に食べた「うまい棒」や「きなこ棒」もあった。
駄菓子用の棚を置くと、仕事をするスペースが思いのほか狭くなり、「潜水艦のコックピット」のようになった。手続きの簡単さ、仕入れの楽しさも含め、中村さんは「子どもがお店屋さんごっこをやってるみたいだな」と感じながら準備を進めた。

初めての小売業で、開店にあたってなにをすべきかもわからない。とりあえず、開店日を記した貼り紙を出した。
2016年4月23日、創業スクールでのプレゼンからわずか半年で、「ヤギサワベース」オープン。中村さんはその頃すっかり地域に馴染んでいたこともあり、当日は大勢の知り合いとその子どもたちが訪ねてきた。


想定外だったのは、その波が収まらず、毎日のように子どもたちが訪ねてきたこと。雨の日など天候によって客足は左右されたものの、来客ゼロという日はなかった。子どもが集まる場所になっているという実感は、「趣味とシャレの延長上」と考えていた中村さんの気持ちを変える。


「でたらめにやっちゃいかん」商売
中村さんの本業は、あくまでグラフィックデザイナー。ヤギサワベースで作業できることもあるとはいえ、クライアントとの打ち合わせなどで外出することも少なくない。開店当初、ひとりで店番をしていたため、外で用事があるときには店を閉めていた。
ある日のこと。外出先からヤギサワベースに戻ると、店の前で3人の子どもたちが佇んでいた。その姿を見て、胸が痛んだ。スマホを持たない子どもたちには、開店しているのかどうか、情報を得る手段がない。遊びに行こうと思って訪ねてきたのに店が閉まっていたら、子どもたちをガッカリさせてしまう。
このとき、「不定期営業はやめよう」と感じた中村さんだが、駄菓子屋のために本業の外出を減らすという選択肢はない。どうすればいいのか悩み、開店から1年ほど経って白羽の矢を立てたのが、妻の麻美さん。「仕事を辞めて、店番を手伝ってほしい」と頼み込んだ。
しかし、すぐに断られた。中村さんと出会う前、シングルマザーのときからしっかりと仕事をして子育てと両立させ、自立してきた自負がある麻美さんが、仕事を辞めることに抵抗を感じるのは当然だろう。
中村さんにとっても、リスクのある提案だった。夫婦共働きの稼ぎが、ひとり分失われることになるのだ。駄菓子屋で大きく稼ぐことは不可能なのだから、ひとりで中村家の家計を支えなくてはいけない。
取材の際、「なぜ、そこまでして駄菓子屋をちゃんと営業しなきゃと思ったんですか?」と尋ねると、中村さんはほほ笑んだ。
「最初は、駄菓子屋が子どもたちにとってひとつの目的地になるということをまったく想像してなかったんです。でも、店の前にいる子どもたちを見たとき、でたらめにやっちゃいかん商売だったなと気づかされました。それに、駄菓子屋を始めたことで、本当ちょびっとですけど、地域の仕事ももらえるようになっていたんで、この先、なにかつながるものがあるだろうと考えていました」
麻美さんにこの思いを伝え、話し合いを重ねた結果、2017年11月、麻美さんはヤギサワベースの「女将」に就任した。
「妻も地域の人とつながっていくことにおもしろみを感じていた時期だったので、収入よりも、未来を優先してくれたんだと思います」
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