日本のトップパラアスリートに直撃し、競技者から見る競技の魅力や、普段あまり語られることのない素顔に触れる連載「パラアスリートの過去、現在、未来」。第4回は車いすテニスの齋田悟司選手。国枝慎吾選手とダブルスを組み、パラリンピックで過去3度のメダルを獲得した“レジェンド”が語る車いすテニスのこれからとは。
「やりたかったのはバスケ」
――車いすテニスをはじめたきっかけを教えてください。
「小学校の頃は野球をやっていましたが、12歳の時に骨肉腫で左足を切断することになりました。その後はじめたスポーツは、車いすテニスではなく車いすバスケだったんです。車いすバスケのチームに所属してプレーしていたのですが、ある時チームメイトとともに車いすテニスの講習会に参加しました。するとそれをきっかけにチームメイトがみんな車いすテニスに移ってしまい、チームがなくなってしまったんです(笑)。そこで自分も半ば仕方なく車いすテニスをはじめたというのが最初のきっかけでした」
――齋田選手が始めたころは今よりも車いすテニスの認知度はどのくらいあったのでしょうか。
「車いすテニスをはじめた当時は、ジュニアという若い世代の子供たちが車いすテニスをやっているのを見たことがありませんでした。最近では子供たちが各地方で熱心にプレーしていますし、認知度や競技人口は増加しているという感覚はすごくあります」
――プロアスリートとしてプレーしようと思った経緯はどのようなものだったのでしょうか。
「車いすテニスをはじめた当初は長い間続けていこうという思いはそこまでなかったんです。最初はラリーがつながるようになったら楽しい、うまく打てたら気持ちがいい、というところからはじまって、そのうちに大会にも出場するようになりました。自分の中で世界にチャレンジしようと思ったのは、1999年に拠点を千葉に移した頃からです。勝ったり負けたりを繰り返す中で、どうしたら勝てるのか、上手くなれるのかと試行錯誤の連続でした。そうして一生懸命取り組んだ結果、気づけば日本のトップ選手と言われるようになっていたというところです」