【連載第2回】 今日が暗殺150年! 龍馬暗殺の黒幕を総ざらい
東京ウォーカー
2017年11月15日は、坂本龍馬暗殺からちょうど150年! ということでいま改めて追いかける暗殺の黒幕ミステリー。信憑性の高そうな説からぶっとびネタまで諸説を探ってみよう。
◆土佐藩黒幕説 動機:保身/横領
首謀推定者:後藤象二郎/岩崎弥太郎
坂本龍馬は土佐藩の出身。まさか身内が黒幕とは!? というインパクトの強い説。龍馬の歴史上の功績で最大のものは薩長同盟と大政奉還といわれるが、後者を土佐藩の“藩論”に押し上げて、前藩主(だけど実質的なワンマンオーナー)山内容堂を説得し、将軍・徳川慶喜に建白させたのが後藤象二郎(参政という家老職にあった)。

土佐藩黒幕説といっても首謀推定者は複数いる中、有力視されるのがこの「後藤黒幕説」で、龍馬から教えられた大政奉還を自分の発案ということにし、手柄を独り占めにしたかったことが動機といわれる。直木賞作家の三好徹もこの説で小説を書いている。
でも大政奉還は龍馬のオリジナルじゃないし、大久保一翁や横井小楠、勝海舟など開明的な人物はけっこうこういう発想を持っていた。龍馬の同志や海援隊士の中には龍馬が後藤にこの案を話したり、書簡を書く現場にいた者もいるし、これら全員を暗殺しないと手柄の独り占めはできない。
インテリたちが一種、理想論のように語っていた大政奉還を、あのテこのテを駆使して実現にこぎ着けたのが龍馬で、後藤は土佐藩を動かしてそれに協力した。いわば蒸気船の両輪のようなもので、大政奉還は二人にとってゴールじゃなく、新国家樹立の後も後藤には龍馬のアイディアと人脈に利用価値があったはずだ。
土佐説でほかにおもしろいのは、岩崎弥太郎を黒幕とするもの。あとで「紀州藩説」にも書くが、海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突し、沈没させられた事件の後、紀州藩からの賠償金7万両(現在の価値で数十億円!)を横領しようとした岩崎が、邪魔な龍馬を排除したという説だ。
明治維新の直後から、岩崎が急速に九十九商会→三菱商会と創業・発展させていく過程(ここに後藤も関わっている)に、かな~りグレーな印象があり、そこからこの話が生まれた。
また、できるだけ平和的なアプローチで幕府を廃止し、新国家を誕生させたい龍馬に対して、あくまで武力討幕路線を進もうとする乾退助(後の板垣退助)や、その同志だった中岡慎太郎が自らも暗殺させることで龍馬を道連れにしようとした奇抜な説もある。
岩崎、板垣、中岡説のいずれも動機のインパクトは強く、物語としておもしろいが、史料やロジックの面ではちょっと厳しい。にも関わらず、身内のはずの土佐藩関係者に、後世の人間が黒幕と想像する人間がこれだけいるのは恐ろしい……。龍馬、敵を作りすぎ。
◆新選組・見廻組説 動機:警察権の行使
首謀推定者:近藤勇/佐々木只三郎
こちらは土佐藩説と違って、黒幕ではなく実行犯についてだ。龍馬暗殺を実行したのは見廻組、というのが今では定説になっている。ところが龍馬暗殺の当時、同時代人たちは新選組のしわざと信じる者が多かった。大久保利通も岩倉具視も、日記や書簡に「坂本・中岡暗殺は新選組なるべし」と書いているし、土佐藩の後藤や谷干城もそう信じて、幕府の大目付(監察官のトップ)の永井尚志に新選組を処罰するよう抗議している。

当の新選組も一旦は認めちゃってるんだから仕方ない。新選組といっても局長の近藤勇や幹部クラスではないが、元隊士の大石鍬次郎が薩摩関係者に捕まり、受けた拷問があまりにキツかったため、龍馬殺しに新選組の原田左之助が関わったと自供した。でも後に、拷問から逃げたくて以前はそう言ったが、龍馬を討ち取ったのは見廻組の今井信郎、高橋某たちと近藤勇が話すのを聞いた、と供述した。
そこで新政府は、箱館戦争で降伏して投獄されていた今井信郎本人を取り調べ、いくつか供述書を作った。上司の佐々木只三郎の指図で、目的は龍馬の捕縛だが手に余れば殺害してよいと言われていたこと、任務にあたったのは7名で、その姓名まで今井は明らかにした。
この供述書が官製史料になって、現在の実行犯=見廻組の定説になった。ただし最初の供述(明治3年)から大正7年に死ぬまでに、今井は何度か龍馬暗殺について語ったり取材に応じているものの、実行犯の人数や名前など内容は異なっている。中でも明治3年には「自分は近江屋の1階で醤油商の家族を見張っていて、直接龍馬を襲撃していない」と言っていたのが、後には龍馬を斬ったのは自分だ、と語っている点は奇妙だ。
自分が殺したか殺していないかの記憶が曖昧になるとは考えにくいから、昔の自慢話として誇張したのか、それとも本当は2階の襲撃チームにいたのか……? 今井と同じ見廻組にいた渡辺篤も、同じく大正まで生きて龍馬は自分が斬ったと書いたり語っている。
新選組も見廻組も実行“犯”と書いたのは龍馬側からの見方で、逆の立場でいえば龍馬の捕縛・殺害は警察権の行使だった。暗殺前年の慶応2年、京都伏見の寺田屋に宿泊していた龍馬は、逮捕にやって来た伏見奉行所の捕り方と格闘し、少なくとも2人を死亡させている。
高杉晋作譲りのスミス&ウェッソンのリボルバーをぶっ放したり、入浴中だったお龍が真っ裸で危険を知らせるおなじみのシーンは、この時くり広げられた。新選組・見廻組から見れば、龍馬は現代風にいえば警官を殺した殺人犯となり、職務遂行のために襲撃したのであれば、黒幕は特になく実行者ということになる。

しかし幕府大目付の永井は近藤とも龍馬とも親しく、一説には近藤に坂本へ危害を加えることを禁じていたという。近藤や大石の上の話でも新選組実行説は消えるが、見廻組については佐々木の指図ではなく、さらに上層からの命令だったという史料も多い。詳しくは「会津藩説」まで待ってほしい。<3に続く>
【ボクらの維新通信社2018/坂本犬之介】
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