30代で始める殿様生活 井伊直弼のオタク道

東京ウォーカー

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生まれた時からニートの人生


神奈川県横浜の掃部山公園に立つ井伊直弼像。横浜開港の恩人として建てられたものだが、ホンネは鎖国攘夷派だった直弼本人は複雑な思いかもしれない。


井伊直弼のイメージといえば、安政の大獄という大弾圧を行なって、逆らう者みな死罪にしたコワ~い人。こんな感じだろう。確かに井伊直弼は幕府の大老として、吉田松陰や橋本左内といった有能な人材を死罪にした張本人。ちなみについたあだ名は「赤鬼」で、当時の人々からも恐れられていたことがわかる。しかしそのパーソナリティーに目を向けると、井伊大老のイメージはガラリと変わる。

文化12年(1815)10月29日、直弼は彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた。直中は子だくさんで、男だけで15人。直弼はその14番目で、彼が生まれた時にはすでに兄の直亮が家督を継いでいた。殿様の息子といっても、家督を継げなければ「ムダ飯食らいの厄介者」と扱われるのが当時の武家の常識。他家に養子の口を見つけるか、出家して寺に入るか、さもなくば生涯兄の世話になって日陰者人生を送るか。直弼には最後の道しか残されていなかった。

17歳の時に彦根城三の丸の片隅に屋敷をあてがわれ、何の目的も持たず、いや持てないまま35歳(!)まで過ごす。養子の口はほかの兄から決まっていくし、直弼の母は江戸の町民の出ともいわれた側室で、身分が低い。さらに実子がなかった藩主の直亮は、十一男の直元を養子にして、次代を継がせることを決めていた。つまり直弼は、どう足掻いても日の目を見ることができない人生を決定づけられていたのだ。

直弼が青年から壮年にかけての大事な時期を過ごした埋木舎。行って見ると、思いのほか狭くて質素なたたずまいに驚かされ、そして哀れをもよおす。


まさに現代でいうところのニート。仕事もなく人生の目的もなくチャンスもなく、ただ食べて寝るだけの毎日。多感な思春期から働き盛りの時期を、まったく無為に過ごすしかない。後の「赤鬼」大老もさすがにまいってしまい、自らの屋敷に自虐的なネーミングをした。「埋木舎(うもれぎのや)」。決して花を咲かせることのない、朽ちていくだけの木なのだと。

オタクだから生きられた地獄の日々


まったくチャンスがないとわかっていれば、どこかで諦めることもできる。しかしごく稀に運命の神サマが気まぐれを起こす。エグいくらいの気まぐれを。天保5年(1834)7月、跡継ぎのいなかった延岡藩に養子の口があり、直弼は弟とともに江戸に出た。養子のオーディションを受けるためだ。しかし選ばれたのは弟のほう、十五男坊の。翌年夏、直弼は独り彦根に帰る。

明治期に撮影された彦根城。埋木舎から、憧れ・嫉妬・苦悩・夢……いろんなものがないまぜになった目で見上げたのか。


「俺はなんのために生まれてきたんだーッ!!!!」。つい叫んでしまう夜だってあったろう。ネットやゲーム、テレビのある時代じゃない。追っかけたいアイドルも妄想に耽らせてくれるセクシー女優もいない。匿名掲示板もないからグチをこぼし合うこともできない。いやそれらがあったとしても、到底慰め尽くせる人生ではない。直弼は庶民じゃないのだ。庶民なら、家も縁も捨てて新天地でワンチャン狙ったり、失敗しても酒飲んでのたれ死んじゃえばいい! と開き直ることもできるだろう。しかし殿様の息子ではその自由もない。

「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」

延岡藩にフラれた後、直弼が詠んだ歌である。世間で起きていることは自分と何の接点もない。働きたくても働けない。何かをしたくても許されない我が身を“詠ってみた”のだ。でも、うもれ木も埋もれきってはいないんだ。呪うだけでは何も変わらない。それこそ本当に、生まれた意味がなくなってしまう。

直弼は己れを趣味に埋もれさせることにした。徳川四天王・赤備えの井伊直政を先祖に持ち、譜代筆頭格の大名家に生まれた武士としての生き方は、もうすっぱり捨てる。リセットだ。茶道、和歌、能、禅、鼓、兵学、居合、国学と、当時の趣味教養のほとんどカテゴリーを手当たり次第に学んだ。時間だけはある。それらを修得し、工夫し、極めることに全精力を費やした。

十数年経ってみれば、能と小鼓は免許皆伝の腕前となり、居合も奥義を極めて自分で一流を立てるほどに。謡本『筑摩江』、狂言本『安達女』を執筆し、茶道具をフルスクラッチで創作するだけでは飽き足らず、こちらも流派を立ち上げ、後進のためにハウツー本まで書く。一度手をつけたら全力でハマっていく生き方。現代に生きていればまさにオタク。ニートでオタク。30代になってもなお!

チャカポン様からまさかの超出世!


もしもこのまま人生を送っていれば、直弼は幕末の異能のマルチ趣味人として名を遺しただろう。しかし運命の神サマはとことん気まぐれ。そしてエグいのだ。嘉永3年(1850)、藩主だった兄の直亮が死去。その養子だった直元は、それに先立つ弘化3年(1846)に病没していた。ほかの兄も他家を継ぐか亡くなっていたため、直弼に白羽の矢が立ち、まさかの藩主に就任!

直元病死の際、改めて直弼が養子に据えられ、大名見習いとして修養する期間はあった。とはいえそれは32歳から。それまで「茶」の湯と和「歌」と鼓(「ポン」と鳴る)が生き甲斐の中年オタクニートで、「チャカポン」と陰口を叩かれていた直弼は、しかし35歳で藩主になるや、藩政改革を進めて「名君」と讃えられるほどの手腕を見せた。

こちらも「赤鬼」と呼ばれたアメリカのペリーさん。外交でしのぎを削ったお互いが、同じニックネームで呼ばれているとは想像もしなかっただろう。


日本はその頃、続々と諸外国がやってくる激動期に入っていた。嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、直弼は幕府の外交と海防政策について積極的に意見し、頭角を現わしていく。また将軍の後継者選びでも、御三家の紀州徳川家の慶福(後の14代・家茂)を推して、存在感をますます強めていく。そして、いまNHK大河ドラマで爆上げ中の名君・島津斉彬(薩摩)や、ひと筋縄ではいかない曲者・徳川斉昭(水戸)などのライバルの前に、「赤鬼」となって立ちはだかるのだ。

なぜ中年オタクニート上がりの佐野史郎が、渡辺謙や伊武雅刀をも抑え込む鬼に変貌できたのか。井伊直弼には、ニートでオタクという他にもう一つ、“幕府信者”という一面があった。それは生半可なものではなく、幕府の権威を落とす者はみな殺しにする! というほど強烈なものだった。

政府である徳川幕府の外交や国防の政策に、薩摩や水戸、土佐、越前、宇和島などの諸藩が平気で口を出してくる。国の政治に意見を出し、合議できるのは、関ヶ原の戦い以前から徳川に味方していた譜代の老中だけだ。それが最近では、かつて徳川に刃向った外様大名たちが我が物顔に意見してくる。それも、当時の国会議事堂だった江戸城に登城できる身分の藩主だけでなく、民間の学者や思想家、“志士”とかいう新しい者たちが世に群がり出でて、堂々と批判しているではないか。そのことが直弼には許せなかった。

直弼から見れば、幕府の権威を失墜させた元凶になる老中首座の阿部正弘。驚くほど進歩的な考えの持ち主で、従来の老中制だけてはなく、全国諸藩に国政への意見を求めた。


だから直弼は、水戸藩が「外国と貿易なんてダメ、断固攘夷だ!」と言えば、反対の開国策を打ち出すし、13代将軍・徳川家定の後継には紀州徳川家の慶福(後の14代将軍・徳川家茂)を推して、一橋慶喜を担ぐ薩摩や土佐などの諸藩を抑え込もうとした。

居合の達人、刀を抜けず!


安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結された。字面を見れば、日本とアメリカが仲良くして貿易しようという条約で、島津斉彬や勝海舟、坂本龍馬たちと同じビジョンに見える。これを決断した井伊直弼も開明的な開国派だったことになりそうだが、自身の意見書や公家に出した書状には、一旦開国するが後に従来の国法=鎖国に戻すとも書いている。同時代人の福澤諭吉も「開鎖の議論においては真闇な攘夷家という他に評論はない」と断言している。直弼の目には、開国するも鎖国に戻すも幕府の勝手であり、アメリカもまた外から口出ししてその威厳を貶める敵に見えるのだ。

同じ年、徳川家茂が14代将軍に就任。一橋慶喜を推していた諸藩の藩主たちは、軒並み隠居や謹慎を強制された。安政の大獄の始まりである。翌年、吉田松陰や橋本左内、梅田雲浜などが幕府批判を理由に斬首、あるいは獄死させられた。特に慶喜の実家である水戸藩への処罰は過酷で、徳川斉昭は永蟄居で政治生命を断たれ、家老は切腹、藩士も斬刑に処された。大獄の嵐は公家や皇族、僧侶にも及び、また庶民層でも画家や医者、名主、女まで対象になった。幕府内部でも敵対的な奉行や旗本が処罰され、その中に開国派が多かったことも直弼の本音が鎖国だったことをうかがわせる。直弼のあだ名は、チャカポンから「井伊の赤鬼」に変わっていた。

江戸城桜田門。彦根藩邸から600mも離れていない。襲撃者たちは各藩の家紋が載った『大名武鑑』を手に、彦根藩の行列を待ったという。


そして安政7年3月3日、季節外れの大雪の朝、井伊直弼は登城の道中で襲撃され、数えの46歳で暗殺された。場所は江戸城桜田門付近。下手人は水戸の脱藩浪士17人と薩摩脱藩の1人。襲撃浪士が最初に放った拳銃の一発が直弼の腰に直撃し、殿様剣法のレベルを超えて達人の域に達していた居合を抜く間もなく、首を獲られた。

まったく諦めていた藩主の座から、さらに幕府大老にのぼりつめた時には、井伊直弼はすっかり変わってしまっていた。茶の湯と禅を愛して心の平穏を得たはずなのに、能を舞い狂言を書いて趣味教養の世界に生きていたのに、藩主時代には彦根の士民に十数万両もの還付をした優しきオタニートだったのに……。いつしか幕府と自分の境遇を重ねて、その権威をおとしめ、変革を迫る者たちを恐れるようになった。そうとしか思えない。

東京・世田谷区の豪徳寺にある井伊直弼の墓。2010年の調査で、あるべきはずの石棺が見つからず、直弼の遺骸の行方はわかっていない。


今週の『西郷どんナナメ斬りッ!』


左から、西郷隆盛ゆかりの奄美大島にルーツがあるマペヲ、龍馬と同じ土佐郷士をルーツに持つ晴野未子、そしてペリーと同じアメリカがルーツのロバート・ウォーターマン。


幕末維新が大好きな俳優や声優、歴ドルたちが、NHK大河ドラマ『西郷どん』を多角的なアングルで語るトーク動画。今回は第10回「篤姫はどこへ?」がテーマ。ドラマではシーンが短すぎて物足りなかった、本稿記事の井伊大老のライバル・島津斉彬の「衆議一致」ビジョンや、今回初登場した橋本左内のスゴいところを3つ、関ヶ原の戦いから幕末まで260余年も続いた倒幕派の秘密の儀式などなど、熱く語ってます!

ボクらの維新通信社2018/ロバート・ウォーターマン(KUROFUNE-United)

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