【シン・ゴジラ連載Vol.14】ゴジラに踏み潰された庵野秀明

東京ウォーカー(全国版)

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2016年の夏、日本の映画興行界を席巻した庵野秀明総監督の怪獣映画「シン・ゴジラ」。「エヴァ」シリーズの奇才にとって本作は何だったのか?それを突き詰めていくことで見えてくるものとは?

エヴァという巨壁からの逃避


映画「シン・ゴジラ」よりTM&(C)TOHO CO., LTD.


「今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦と思い、引き受ける事にしました。エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、引き受ける事にしました」

これは、株式会社カラーの公式サイトに掲載された「『シン・エヴァンゲリオン劇場版』及びゴジラ新作映画に関する庵野秀明のコメント」と題された文章からの引用である。

庵野秀明が新作「ゴジラ」を撮る。リリースされたのが2015年の4月1日だったから、念の入ったエイプリルフール・ネタだとネットでは盛り上がったし、わたし自身もそうであってほしいと思った。が、読んでみると、そこには新エヴァ完結のプレッシャーから逃げ回る自分自身の心境を吐露している庵野の姿があった。これが冗談だとすればタチが悪い。「鬱状態」「アニメ制作へのしがみつき行為」など、“そんなこと言われたら、こっちは何も言えません”的な直截なワードが積み上げられており、ああ、新エヴァを完結させるための壮大なリハビリとして、その「ゴジラ」とやらは機能するのだな、そして、わたしたちはそれを受け入れなければいけないのだなと感じた。この原稿を読んだ多くの人々の感想は次のようなものだったのではないか。

“ならば仕方がない、思う存分、気分転換してください、願わくば傑作になりますように”

おかしな感想である。作品的な完成度よりも、庵野の精神の回復が、そこでは望まれている。だが、「鬱」だの「しがみつき行為」だのと延々述べている人間に対して、それ以上のことを要求できないではないか。

引用した、まるで歌詞の繰り返しのようなフレーズは、庵野がいかに弱っているかを物語っている。「今」からこれから「先」へと、なんとか命をつなごうとする者の呻き声が聴こえた。正直、映画としては期待できないと思った。が、新エヴァ完結のためではなく、庵野秀明という作家が延命するためなら、(東宝には申し訳ないが)「ゴジラ」の1本ぐらい遊ばせてやろう。庵野とは、観客に、そんな親心さえおぼえさせる存在なのである。

庵野秀明、ゴジラで「生まれ直す」


【写真を見る】映画「シン・ゴジラ」よりTM&(C)TOHO CO., LTD.


いま、わたしたちの前には「シン・ゴジラ」と題された、今年の日本映画を代表する一作がそびえ立っている。批評、興行共に制したと言っていいだろう。初見では驚いた。これまでの実写作品では空回りすることも多かった庵野の本気が、アニメのときとはまた違った強度で真っ直ぐに届いていたからである。しかも、開かれている。エヴァとのリンクはあるし、庵野ファンなら大喜びする側面もある。つまり、オタクへのエサはたくさん撒まかれてはいる。だが、そうでない層に訴求する力がある。なんなのだ、これは、いったい。単に「ゴジラ」というバリューによるメジャー性ではない。作品としてはまったく大衆に媚びていない。むしろ挑戦的であり、しっかり対峙している。これでもかというほどの情報の投下、俳優陣の早口、緩みのない映像連鎖、フィクションと現実を切り結ぶ視点などなど、妥協は微塵もなく、能動的に追いかける意志のある観客だけを相手にしている。そんな作品が結果的に大ヒットした。大変に喜ばしいことである。映画を創るという行為はもちろん、映画を観るという行為も、きわめて意志的なものだということがそこでは証明された。庵野が本気で投げた球は真っ直ぐにわたしたちの許に届き、わたしたちは真っ直ぐに本気でそれを打ち返そうとする。しかも、オタクだけを相手にしているわけではない。

では、そんな幸福な関係性は、どこからもたらされているのか。

結論から言おう。「シン・ゴジラ」は、庵野秀明が「生まれ直す」ために作られた映画だ。わたしは、本作に、転生のためのダイヴを感じる。たとえばそれを「自死」と呼んでもいいだろう。いったん死んで、新しい自分に生まれ直す。端的に言えば“「エヴァ」の庵野”を殺して、“「シン・ゴジラ」の庵野”として復活しようとする祈りが感じられる。庵野は自分の肩書きを書き換えたかったのではないか。“「エヴァ」の庵野”ではなく、“「シン・ゴジラ」の庵野”が新エヴァを完結させるべきだという確信が、この映画の、澄みきった迫力につながっている。そして“生まれ直し”めがけてダイヴする者の魂は、オタクであろうとなかろうと、人間であればなんとなく感じ、受けとめることができるのではないか。そんな気がしてならないのである。

映画は、東京湾羽田沖で「無人」のプレジャーボートGLORY MARU(なんとも象徴的、暗喩的な船名である)が発見されるところから始まる。そして、凍結されたゴジラの尻尾に「人骨」らしきものが浮かび上がっている様を捉えたショットで、映画は終了する。「無人」が示すものは、もうかつての庵野秀明はいない、ということであり、「人骨」は庵野秀明そのもの、つまり、庵野はここで生いけ贄にえになりました、来世での庵野にご期待ください、という宣言=メッセージ=サインなのではないか。「無人」の光景で始まり、「人骨」で終わるという映画の構成は、非常に潔く、清々しささえ感じさせる。悲痛さがない。それは、作者の覚悟が決まっているからである。

無闇な新境地など求めない。音楽、演出、キャラクター造形にいたるまで「エヴァ」をサンプリングする。本気でやれば、実写/アニメの垣根などなくなるはずだ。アニメとは違うことをやるために実写を撮るのではない。庵野秀明を終わらせるためにやる。

そんな開き直りが、大人しか登場しない世界観を生んだ。ここには「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」などと呟いている碇シンジのようなガキはひとりも登場しない。全員、ゴジラを前にして、いま自分のできることだけを敢然とおこなっている。己の背景やアイデンティティ、愛だの家族だのには一切寄りかからない人々が、当たり前のように危機的状況を生きている。

かつて庵野秀明にインタビューしたとき「もう複雑系はイイ(=いらない)ですよ……」とため息まじりに口にしていた。あれから何年も経ったが、彼はようやく、ほんとうにシンプルなものが撮れたのだと思う。自ら創り上げた怪獣=ゴジラに、作者自身が踏み潰される。そうすれば転生するだろう。そんな明るい妄想を周到に計画し本気で実行すること。

確かにそれはおこなわれた。庵野はゴジラを支配するのではなく、ゴジラに踏み潰された。よくぞ踏み潰された!カッコいいぞ!と、わたしたちは喝采を送っている。無意識のうちに。

今作には清らかな圧縮がある。それは、はいどうぞと、踏み潰されているからなのだ。

では、庵野秀明はどこに転生したのか。それは、これから「先」の話である。

【相田冬二(あいだとうじ)●ライター/ノベライザー。雑誌「シネマスクエア」で「相田冬二のシネマリアージュ」を、楽天エンタメナビで「Map of Smap」を連載中。最新ノベライズは「追憶の森」(PARCO出版)】

編集部

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