【シン・ゴジラ連載Vol.15】僕はこうして“ゴジラ中毒”になった
東京ウォーカー(全国版)
子供から年配の方までが劇場に足を運んだ本作。従来の怪獣映画では考えられない、幅広い観客を劇場に集め、興奮と困惑を与えた本作の魅力について、平成ゴジラで育った気鋭作家が迫る。
一体、こいつは、なんなんだ?

ゴジラはカッコよいものだ―そんな考えが、僕の中にはあった。
ゴジラシリーズは年齢によって「直撃世代のゴジラ」が分かれるそうだ。それらは場合によっては「○○世代」なんて言われることもあり、中にはひとくくりにするなと反発の声もあるそうだけど、これだけ歴史が長いとそう区分されるのも仕方のないところがあるのかもしれない。で、それに倣ならうと僕は「平成ゴジラ世代」に当たるらしい。生まれたのが1984年なので、ちょうど「84ゴジラ」が公開された年、初めて観たのは「ゴジラVSビオランテ」だ。幼心にスクリーンで観たゴジラは、素直にカッコよかった。堂々たる佇まいと迫力のある面構え、劇場が震えるような咆哮は、およそ子どもが痺しびれて魅入る要素を全て兼ね備えていたと思う。だからかもしれない。知らない内に僕の中で「ゴジラはカッコよいものなんだ」というような印象が植え付けられていた。並みいる強敵を打ち倒し、その頂点に立つことを許された、破壊の王なのだから、と。
そして、それから長い年月が経過した時、「シン・ゴジラ」は公開された。
実をいうと、物凄くタイミングがよかったのだ。僕は仮面ライダーやスーパー戦隊、ウルトラマンには触れていたが、怪獣・特撮映画に関しては長らく距離を置いていた。だが何の因果か、数年ほどまでから再びそれらにはまり始めたばかりだったのだ。これは神の采配かもしれない、なんて大げさなことを考えながら、いそいそと劇場に足を運んだ。
で、観た。観てしまった。二十数年ぶりのゴジラを。
正直に言えば、カッコよさはどこにもなかった。いや、あるのだ。あるのだけど、僕の中に存在する子ども心が感じるカッコよさではなかった。いびつで、不気味で、おぞましくて、忌々しくて、憎々しくて、脅威だった。今回のゴジラに、自分の中で無意識下に植え付けられていた、ある種のヒーロー的な部分はなかったように思う。それどころか、ここに、たとえばキングギドラやバラゴンなんかが現れたとしても、こいつは無視して東京を破壊するのではないだろうか―そんな風にすら考えた。じゃあダメだったのか、と言われると、まったくそんなことはない。非常に惹ひきつけられた。僕が知っているゴジラとまるで違うのに、動きの一つ一つから目が離せなかった。口が大きく開いたかと思うと、何かが流れ出し、東京中が一瞬にして火の海になるほどの爆裂が起こった時など、放心してしまったほどだ。
一体、こいつは、なんなんだ?
あんまりにも衝撃的で、上映後、ふとそんな根本的な疑問が頭を過ぎった。作中では、放射性物質の影響により誕生した、というような説明がされてはいる(と僕は受け取ったのだけど、実は違っていたら、ごめんなさい)。だけど、それすらも「人間が納得いくように理屈をつけただけなんじゃないか?」などと疑ってしまった。
何せ、上映間もなく皮膚を剥がされたイグアノドンみたいな奴が体をうねらせながら突撃してきたかと思うと、いきなり立ち上がり、停止して、思い出したように海に帰って、戻ってきたら黒くてごっつい二倍以上の体長の奴になっているのだ。どんな理屈をつけたにしろ、そんな生き物いるか?それこそ「巨災対」に集まる異端の天才たちに言わせると「ありえる」ということになるのかもしれない。ただ、あくまで平凡な頭しかない僕には、どうにも腑に落ちなかった。
まるで、何の理由もなく、日本を地獄にする為だけに現れた存在のように見える。天災か、もしくは、神だ。となると今回の物語は、人が絶望的な神(自然現象)に対抗する術を持つに至ってしまったという表現であり、同時に警句でもあったのだろうか。
意味を与えようと考えること、その行為自体に楽しさを覚える

ともあれ、長々書いてきたが纏まとめると、今回のゴジラはそういう意味の分からない恐怖があった。昭和ゴジラ、特にコミカルな動きを入れていた頃の彼は、なんとなく話をすれば穏便に帰って頂ける雰囲気がある。平成ゴジラも迫力はあるものの、誠意を込めて真摯な態度で接すれば、うんと頷いてやはり帰って頂ける雰囲気があった。だがシン・ゴジラはダメだ。話の通じる気がしない。それどころか会話を切り出す「あのですね」の「あ」の辺りで背中から尻尾から口から光線を吐き出して消滅させられてしまいそうだ。この「話が通じない」とはつまり「相手の正体が掴つかめない」ということでもある。今回の映画を撮られた方のひとり、庵野秀明監督の別作品に「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメがある。そこに出てくる「使徒」という敵も、最初は、なんだかよく分からないが人類を攻めてくる敵、つまり「正体の掴めない相手」だった。2作に共通するものが庵野監督の意図なのか、もしくは単なる偶然なのかは分からない。ただ、監督の描く「正体不明」はこちらの感情を強烈に揺さぶってきた。そこに、作中で描かれる政治家や一般の人達のリアルな動きや、絶妙なタイミングで流れるBGMと合間って、2時間ほどの上映時間があっという間に過ぎ去ってしまう。本当にあっという間だったので、仕事の合間を縫って、3回も観てしまった。
不思議な作品だ、と思う。僕は通常、どんな素晴らしい作品でも一度観ればしばらくは大丈夫、という人間だ。多分それは、1本の映画に込められた過不足のない描写に、満足してしまうからだろう。
「シン・ゴジラ」に描写が不足しているとは思わない。ただ、足りない、のだ。物足りないわけじゃない。お腹一杯に面白さを詰め込んではいる。なのに、心の胃袋というものがあるなら、そのどこかに空白がある。でも、その足りなさを埋めるものが何なのかが掴めない。その為、また観てしまう。一通り堪能して、ああ、よかったなあ、と思って帰る。そのしばらく後、「うーん……やっぱりもう一度観よう」と劇場へ向かう。その繰り返しで、3回だ。正直、時間があれば、回数はその倍以上になっていたと思う。
一体この感覚はなんなのだ、である。
これもまた先述した、正体の掴めない敵、なのかもしれない。それを思うと、今回の映画の肝、面白さは、ゴジラ含めて「分からない」という部分にあるんじゃないだろうか。観て、感じた、形に出来ない「なにか」に、なんとか意味を与えようと考えることで、その行為自体に楽しさを覚えてしまうのだ。もう一度言うが、「シン・ゴジラ」のゴジラに僕が子供の頃に感じたカッコよさはなかった。だが、残念でもなんでもない。代わりに別の価値のある「なにか」は確実にあると思えたからだ。それがなんであるのかは観る人によって違うのだろう。僕にもまだはっきりとはしていない。だから何度でも、観たくなってしまう。今度こそ正体を明らかにしてやる、とばかりに。
【空埜一樹(そらの かずき)●文筆業。小説「死なない男に恋した少女(HJ文庫)」にてデビュー。以後、「超! 異世界学級!!」「扉の魔術師の召喚契約<アドヴェント・ゲート>」などのライトノベルを中心に活動中】
編集部
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