すべての人を救おうとする「阿弥陀如来」。その教えから自己の生き方を見つめ直す【作者に聞く】

「阿弥陀如来」という仏さまの誓い

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阿弥陀如来という仏さまは、「どんな人でも救いたい」という願いを持ち、「一回でも念仏を称えたらどんな人でも必ず救う」との誓いを立てられました。その救済の対象には限りがありません。どんな悪人でも救いたいという仏様ですが、ここでいう悪人というのは、「悪を作ってしか生きていけない者」という意味です。つまり誰かと言うと、悪人とは自分(私)のこととなります。「あいつは悪だ」と、ほかの人のことを指す言葉ではないのです。

自分の力ではどうしても修行したり、よい行いを積み重ねたりすることができない人(私)がいるから、このような誓いを立てたのです。自分の力で悟れない人を救わずにいられないというのが、阿弥陀如来のお心なのです。浄土真宗の文脈では、「悪を作るつもりが無くても、悪を犯さざるを得ないのが人間である」というのです。善をしようと思っていても、思うままに善ができないものも悪人ですね。私たちは日々、悪を作っている自覚はないと思います。しかし、何気なく生活をしている中で環境を破壊しているという事実がある。毎日、鳥や豚や牛や魚やいろいろな命を頂いて生きている。そうしなければ生きていけないですし、時にはそれが当たり前となり感謝の心すら無くしているのが、私たちの生活のありようです。

仏教では人間の存在を、深く見つめています。状況によって何をするかわからなかったり、悲しいことがあってもすぐに忘れてしまったりする私たちの在り方には、深い意味での悪が含まれているというのです。そういう視点からすると、「悪いことしても救ってくれるからOK」というのは、浅い人間観から発せられた言葉ではないでしょうか。

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先輩の僧侶から聞いた話ですが、ある若い僧侶が、浄土真宗の教え、阿弥陀如来の話を聞いて次のように言ったそうです。「どんなあなたでも救うと言われたとき、今の自分のままでいいのかという問いが生じた」。悪を作ってしか生きていけず、生きていることが当たり前になり、おごってしまう私たちです。しかし、そのことを悲しみ、私たちを救いたいと願う仏さまの言葉に触れるとき、自分の問題性に開き直るのではなく、少しずつでも自分をみつめ、自己の生き方を問い直すという方向性も生まれるのかもしれません。

浄土真宗の教えでは、私たちに求められているのは念仏し、仏さまの教えを聞いていくことだけです。生き方は救いの条件にはならないのです。だけど、どんなあなたでも救うと言われたとき、私たちは今のままでいいと開き直る訳ではないのだと思います。誰をも救いたいと願いを立てた仏さまの想いに触れたとき、自分の生き方が問われることが始まる。浄土真宗ではだからこそ教えを聞き続けて、自分の生き方を見つめ直すことが大切だと言われるのです。

また浄土真宗の場合、仏さまの慈悲を信じることが大切だといわれます。しかし、人間が大いなる慈悲を信じることがどうしてできるかと言うと、大きな慈悲自身が人間に働き、人間の心を転換するからだとされます。自分からそんな慈悲を信じるなんて、できないんだと。なぜなら私たちは、本当の意味で真実を見通す力がないからです。どうしても自己中心的な見方をしてしまい、仏さまの慈悲を信じることができない。しかし、そんな自分の思いを破り大切なことに気づかせる力が、大きな慈悲として働いているのだと考えます。すると自分は愚かであったとわかってくると同時に、ずっと自分を助けようと働いていた仏さまの大きな慈悲があったことも知らされる。こういう論理が浄土真宗の教えの中にあるのです。

「ヤンキーと住職」

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