身近な人の死は、自分の生き方を見つめ直す機会になる。先人に導かれて出合う「仏の教え」【作者に聞く】

「身近な人の死」に向き合うこと

ヤンキーと住職7話-10

ヤンキーと住職7話-11

ヤンキーと住職7話-12

私たちは普段、自分がどういう存在であるか知ったつもりで、自己中心的に生きています。私自身そうです。しかし時に僧侶として、重い病にかかった人の相談に乗ることや、誰かの死に出会うことがあります。そして目の前で苦しむ人の言葉、厳粛な命の事実に耳を傾け、絶句するしかできない場面も。そうしたときに浮かれている私の生き様に対して、「それでいいのか?」と問われます。

自分の生き方について今一度問い直す機会が、「身近な人の死」ではないでしょうか。またそれを「ご縁」に、仏の教えや言葉を聞く・尋ねるということも起こります。だから、亡き人を通して自分自身の事実に気づくとき、そこに「諸仏」が存在するのです。

仏教では、前に存在した仏に導かれて仏に成った人を「諸仏」と捉えます。中国の曇鸞(どんらん)という高僧が書いた「略論安楽浄土義」という書物の中に、「前仏によりて、後の仏まします」という言葉があります。意訳すると、「それぞれの諸仏は、前に存在した仏に導かれて仏になった人である」ということです。自分一人で仏に成ったのはお釈迦様だけ。だけど仏教の歴史の中で、大切なことに目覚めていった人たちがいる。その人たちは皆、他者の言葉や導き・生き様に触れて仏になったのです。

また浄土真宗を開いた親鸞という方は、「教行信証」という書物の中で次のように言っています。「前に生まれた者は後を導き、後に生まれたひとは前を訪ねなさい」。仏教の歴史は諸仏の歴史。そして私たちは、仏となる尊い命を頂いているのだと説かれているのです。

浄土真宗では浄土という仏の世界に往生し、仏となった者が菩薩の姿を取って私たちを教化してくれているとの考え方があります。この観点から、亡き人を諸仏・諸菩薩と捉えることもできますね。なにも幽霊のように行ったり来たりするのではなく、教えの中で私たちを教え導く、亡き人と出会い直すということではないでしょうか。

ヤンキーと住職7話-13

ヤンキーと住職7話-14

ヤンキーと住職7話-15

なお、あくまでこれは私なりの教えの頂きです。基本線は押さえているつもりですが、間違って自分勝手に捉えている部分もあると思いますし、常に頂き直していかなければならないと考えています。私としての一番の願いは、「ヤンキーと住職」をきっかけに読者が自分自身でお釈迦さまの書いたものや、仏教の伝統の中に生きた僧侶の言葉に直接触れて、深く考えてもらうことです。仏教の言葉は、自分の人生や悩みのうえで聞いていくべきだと思うんです。そういうことが本当に大切だと思っています。

ただ、学びをさらに深めていっていただければと思うのですが、なかには注意しなければいけない団体や情報もたくさん紛れ込んでいます。その団体や情報を発信している人が信頼できるのか、正体を隠して布教していたり問題性が指摘している団体ではないかなど、よく調べてみることが大切です。

もし、何から学んでいいのかわからない、今接している情報やグループが健全なものなのか判断がつかないときは、信頼できる寺院の僧侶・宗教者や伝統宗派本山などの職員に尋ねるということも、選択肢の一つとして持っていてほしいです。

「ヤンキーと住職」

一見異色な組み合わせの二人の対話を通して仏の教えを知ることができる「ヤンキーと住職」。仏教に馴染みがないという方は、まずはこの作品を通して仏の教えに触れてみてはいかがだろうか。

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