これぞジモト愛! 「本牧」の歴史をひもといてみた
横浜ウォーカー
横浜・本牧は、とても歴史の古い町である。もちろん移住者もいるが、昔から家族でずっと本牧に住んでいるという人も多くいる。そして、その町の歴史を掘り起こし、後世に伝えていきたいという人もいる。編集部では、そんな人たちに話を聞いた。そこで浮き彫りになってきた本牧の文化や、人々の生活。戦前、戦後の本牧をひもとき、これからの本牧について考えてみたいと思う。

戦前の本牧について考えてみる
1945(昭和20)年から1982(昭和57)年にかけて、本牧は米軍の接収地となり、在日米軍の家族が生活するエリアが作られた。本牧の歴史の中では触れなければならない出来事ではないだろうか。では、第二次世界大戦前はどんな生活をしていたのか。横浜市史資料室の羽田博昭さんに話を伺った。羽田さんによれば、戦前の本牧を語る上で欠かせないキーワードは「海」「チャブ屋」「本牧十二天」の3つ。戦前、本牧に海があったことは、ご存知の人も多いだろう。

「チャブ屋」とは女性がダンスの相手をして、酒を飲めて、宿泊もできるという大人の遊戯場のこと。港についた外国人の船員をおもに相手にしていた場所で、ジャズなどの西洋文化をいち早く取り入れていた。大正時代に栄えて昭和初期まで続いていたという本牧の文化のひとつである。
「外国の船が大さん橋などに入ると、人力車がそこで待っていて、降りてくる船員をチャブ屋まで案内した、と言われています」と羽田さん。女性たちは外国人の船員たちのため、和服で相手をする者も多かったという。しかし当時の日本人には敷居の高い場所だった。外国の船が入る港町・横浜ならではの文化というわけだ。
チャブ屋には「スターホテル」など、ホテルと名のつく施設が多数あった。戦争により中止になった幻の東京オリンピックが予定されていた1937(昭和12)年ころ、訪れる外国人が通常のホテルと間違って入ってしまう可能性がある、と看板をおろすように命令が下り、徐々にチャブ屋文化は廃れていく。チャブ屋が立ち並ぶ「チャブ屋街」は、おもに現在の小湊町、「本牧十二天」の周辺にあった。では「本牧十二天」とはどんな場所だったのか。
本牧を見守り続ける「本牧十二天」
本牧には、平安時代から千年近く鎮座する「本牧神社」があるが、その本牧神社のあった場所が「本牧十二天」である。地元の住民にとっては、その昔から神聖な場所で、それゆえ、天狗が出る、という話も戦前にはあったという。本牧神社の伝統行事である「お馬流し」も、本牧十二天から始まっている。

戦前、海が埋め立てられる前の話だが、本牧十二天は海沿いの小高い丘で木々がうっそうと茂る場所だった。羽田さん曰く「海水浴や漁業や養殖も盛んに行われていた、本牧を見守る神様のような存在だった」という。
戦後は接収地のエリアに含まれ、立ち入り禁止になり、その後は国の管理地となった。現在は、その丘のふもとが「本牧十二天緑地」として、市民の憩いスペースになっている。
「本牧といえば海と山があって、海の資料はたくさん残されているのですが、反対側の山側の資料はあまり残されていません。空襲でほぼ焼けてしまったこともあり、特に資料が少ないのです」と羽田さん。住民にとっては、海と共に生活してきたということがわかるエピソードでもあった。
なぜ、空襲は本牧だったのか
第二次世界大戦に敗戦し、1945(昭和20)年に日本はポツダム宣言を受諾。空襲で焼け野原となった本牧の土地は米軍に接収され、軍人とその家族が住む住宅地となった。
「本牧と根岸に、米軍の家族住宅を建てることになるのですが、その話も昭和20年の末に出てきた話だったんです。接収がいつまで続くのかも徐々に決まっていった話で、1年、また1年と日本に長くいることになった米兵たちが家族を呼び寄せるようになったそうです。そこで、日本と朝鮮半島に、アメリカの家族住宅を2万戸作る計画をアメリカが立てました。横浜には米軍の主力部隊の司令部があったので、焼け野原になった本牧周辺が住宅地に選ばれたのだと思います」と羽田さん。

本牧の近くには、ヨーロッパ文化の面影を残すエリア・山手があるが、その周辺は空襲をまぬがれ、今でも西洋の洋館が数多く残っている。羽田さんの見解では、木造の日本人住宅が、ぎゅっと詰まった本牧とは違い、山手は広大な敷地に洋館が点在していた。そのため、空襲で焼くことの効率の悪さなどの理由から、山手は空襲をまぬがれたのではないかという。明暗を分けたのは、住宅の密集度だったという訳だ。もともと、本牧にもヨーロッパの文化は流れてきていたが、米軍の家族住宅となったのちは、アメリカ文化一色に染まっていく。
本牧在住の方から聞いた、戦前・戦後の本牧
前述通り、本牧には先代からずっと本牧に住んでいる人もいるほど、ジモト愛の強いエリアだ。戦争の経験者でもあるジモトの方たちにもお話を伺った。石田榮一さん、高橋弘さん、高野正雄さん、石田良男さんの4名だ。ここに掲載している話は一部分で、話は尽きることがなかった。(以下、敬称略)

ーー戦前の本牧で思い出す事ってなんでしょうか?
石田(良)「外国の文化には慣れていましたね。わりに年寄りでも、無意識に英語話していたりね」
高橋「私たちの子供のころから、横浜・本牧はハーフの子も多かったしね」
高野「ロシアとかドイツとかも多かった」
石田(良)「この辺りもですけど、本郷町の周辺は、ドイツ人やユダヤ人もいました。洋風な文化はあったと思いますね」
高橋「外国人相手に商売になるから、この辺りは牧場が多かった。山手や緑ヶ丘の方にもあったね。数えたら、12~13個の牧場があったんですよ。最後は1975(昭和50)年後ごろまでは見かけた」
石田(良)「本牧で象徴的なのは、昔は市電が走っていて(1911年〜1972年)、折り返す電車も多くて便利だった。三の谷あたりまでは市電が走っていました。”終点”っていうと、それは三の谷のあたりのことを指したんです」
石田(榮)「原三渓さんが、『三渓園』まで市電を通すようにって言って、道を作ったんですよね」
石田「今は本牧通りがメインストリートですが、横浜市営バスの222系統が走っている道が、昔のメイン通りで、旧道って私たちは呼んでいるんです」
ーー戦争中の思い出に、どんなことがありますか?
高野「本牧っていうのは今もですけど、本当にのんびりしたところでしたよ。焼け野原になるなんて考えられない。そう思っていたけど、5月の大空襲で、子供ながら勤労動員で菊名の工場で働くことになって。何を作っているかといえば、魚雷だったんですよ。信じられませんでしたね」
石田「私たちは疎開で箱根周辺に行ってたんで、勤労動員のように怖い思いはしなくてよかった。本牧小学校の生徒は強羅へ疎開して、大鳥小学校は小涌谷へって振り分けられました。でも集団疎開からは、戦争に負ける前に帰っていたんですよ。すると、大鳥小学校の校舎は海軍に接収されてて。そこからは、勉強よりもどうやって生き延びるかって方が大事なんで」
石田(榮)「空襲から逃れて、戦争が終わって、本牧に帰って。日本人はそこから家を作り始めるんです。空襲で焼かれたらもうないんですけど、そのころは知らないから、作ってたらまた燃やされんじゃないかって思ってましたね」
高橋「あのころの米軍の家は、ハウスって呼ばれてたんだけど、焼けトタンで作った日本人の家に比べれば、すごくかっこよかった。日本人の家は停電が多くて、宿題をやっていかない理由に「昨日停電だったから」なんて言ったりしてね(笑)」
ーー接収された土地に元々住んでいた日本人たちは、どこに行ったんでしょうか?
石田「日本軍は負けているわけですから、どこか行けと言われたら飲まざるを得ない。私たちが言われたのは、空いている土地に構わず住めと。あたり一帯が焼け野原だったのでね」
石田(榮)「米軍は土地を接収すると、期限を設けていついつまでに退去せよ、と。空いているところに住めと。うちが持っていた土地に久しぶりに行ってみると知らない人が住んでいたりして」
高橋「米軍は、接収する期限が来るとブルドーザーでやって来て、焼け野原をきれいにしちゃう。父が関東配電(東京電力の前身)に行ってて、接収地の電線をつけたり、電柱を立てる仕事をしていました」
高野「その時に、本牧十二天周辺も埋め立てられましたね。小湊から大鳥中学があったあたりです。うるさくて眠れなかった」
石田(榮)「朝鮮戦争が終わったあとのことですけど、アメリカの兵隊が帰ってくると本牧にあったホテル(遊郭)に、バスに乗ってくるわけです」
高橋「伊勢佐木警察署の周辺には軍事本部があってね。それでそこに来た時に、「カマボコ兵舎」(米軍によって持ち込まれた半円筒形の簡易な兵舎)に入れるわけですよ。そこから、みんなホテルに行くんですよね。今でいうパイラーがいたんです。いわゆる客引きですね」
石田「パイラーって横浜だけの言葉で、「パイロット」のこと。要は水先案内人のことで、客を案内するから、パイロット=パイラー。横浜には遊郭が結構あって、その遊郭を斡旋する人のこともパイラーって呼んだんです」

これからの本牧に思うこと
ーー戦争に関わらず、震災などの被害にも遭いながら、なぜ本牧の住民たちは生き延びられたのでしょうか。
石田「海があったからじゃないでしょうか。この辺は、海の文化と山の文化が交差する町でね。海に行けば食べるものもありましたからね。魚を取る方法や、山で作物を作る方法を知っていたってことですかね。空襲があっても、焼畑農業みたいな感じで草花は生えてきていましたし」
ーーやはり海は特別だったんですね。
石田「本牧にはやっぱり海なんですよ。でも、今は埋め立てて波止場になっていて、立ち入り禁止なんです。それを自由に入れるようにしてほしい。やっぱり本牧の人は海が恋しいと思います」
ーー本牧のこれから、こうなってほしいという希望はありますか?
高橋「伝統を守っていってほしいということでしょうか。本牧神社のお馬流しが今も続いているのだって、そこにこれからのヒントが隠されているんじゃないかと思うんですよ」
高野「やめるって言ったらいくらでもやめる機会があったんですよね、どんな伝統行事もね。お馬流しは、1年に1回なのに、452回も続いている訳ですから、次の世代に繋いでいくっていうのは大変なことなんだと思います。後継者問題は深刻ですけど、とにかく守るべきものがあるっていうのは幸せですよ」
石田「本郷町や本牧一丁目の商店街は、1955(昭和30)年頃からありまして、本牧の住民の生活を支えていました。それがあるから鉄道が通らなくても生きていけると思っていました。鉄道が通っていれば、と今では考えたりもしますが」
石田「だからこそ、みんなでPRしていくべき、というのは感じますよね。例えば、道路をシャットアウトして歩行者天国にして、神社の夏祭りをするとかね。それは昔を大事にしてほしいって気持ちかな。この土地に生まれた子供たちはここが故郷になる訳だし、なんとかここにしかない文化を残してやりたいですね」

本牧の取材ではさまざまな話を聞いたが、本牧には「本牧」「ほんもく」「HONMOKU」「ホンモク」といろんな本牧が混在していることがわかった。時代により、アルファベットで書かれたり、カタカナが似合ったりと形は変わっていったが、それぞれの本牧へのジモト愛があった。
そして今後、この街にどんな歴史が新たに刻まれるのか。筆者は、この町の未来が楽しみに感じた。どんな歴史になったとしても、きっとこのように語り継ぐ人に出会えるだろう。本牧に訪れた際は、そんな歴史を感じながら、昔の地図を片手に歩いてみるのも楽しそうだ。
【取材・文/濱口真由美、撮影/奥西淳二、宮川朋久】
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