本牧のレジェンド! 伝説のライブハウス「ゴールデンカップ」とは?

2018年5月7日 18:10更新

横浜ウォーカー

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1934年の開店当時、夜は本牧通りにあるゴールデンカップの灯りだけが輝いていた (C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


本牧という名前を聞いて、おそらく多くの人が「アメリカンでカッコイイ!」と浮かべるのではないだろうか。アメリカンなイメージのルーツには、軍の接収地(せっしゅうち)」だったという歴史がある。

接収地とは、敗戦した日本の土地を在日米軍が奪い利用していたエリアのことを指す。そこに作られた町はまさに小さなアメリカだった。元から住んでいた日本人にとって、それは見たことのない世界。日本なのに踏み入れることができない、憧れの場所でもあった。接収時代は、1945(昭和20)から始まり1982(昭和57)年まで続いた。

本牧を代表する店のひとつ、伝説のライブハウスと呼ばれ今なお多くのファンが訪れる「ゴールデンカップ」は1964(昭和39)年に開店。ちょうど54年前、東京オリンピックが開催された年だ。当時は、前述どおり米軍の接収地となっていたのだが、そのころの流行の発信地は、東京ではなく、ここ本牧だったのだと、その時を生きた人は語る。どんな意味なのだろうか。

オーナー、創業者の上西四郎さんに当時を聞く!


オーナーの上西四郎さん。京都弁で軽妙に語る気さくな人柄で、周りにはオーナーを慕う人が集まる(C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


米兵で埋め尽くされた店内の様子。1周年に撮影され、当店40周年の際に当時のカメラマンがパネルにしたものだ(C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


オーナーであり創業者の上西四郎さんは、横浜・本牧をけん引して来た一人と言われている。京都出身で婦人服の仕事をしていたが、ひょんなことから横浜・本牧でレストランバーを開店させることになった。それが「ゴールデンカップ」だった。

ゴールデンカップのことを、本牧の人に聞くと「今でも怖くて中に入れない」とよく聞く。上西さんは「そんなことはない。確かにうちは名前だけは売れてるんだよね(笑)。開業当時は、18:00〜翌5:00まで営業していた。ダンスホールみたいで、踊っている子は10代が多かったね。中には接収地の米兵も多くいた。ベトナム戦争の最中だったから、町にもたくさんいた。夜中の24時を過ぎると、フロアに日本人はサッといなくなって、体格のいい米兵ばっかりになる。近くにあった米兵がよく行くクラブが閉まるから、集まってくるんだよね。米兵って言ってもね、若い10〜20代くらいの子たちだけど、3年経てば戦地へ送られるんだよね。たまにベトナム戦争で、生死の境を経験した子が来たりするとわかるね。顔つきが全然違うんだよ」と。

若い米兵たちは黒人が多く、小瓶のビールを浴びるようにラッパ飲みをしてフロアで踊っていたというが、戦争という時代と合わせて見てみると、非常に悲しい物語にも聞こえる。「うちに来る米兵たちは、ドル紙幣をちゃんと日本のお金にチェンジして来てた。可愛いよね。100円なのか、1,000円なのか、よくわかってなかったけどね」。1975(昭和50)年にベトナム戦争が終わり、米兵たちも本国に帰ってしまった。そこから次第に日本人向けの店へと変わっていったという。

最先端の音楽が発信された場所


【写真を見る】このネオンの前で40周年の矢沢永吉が語った。今でも使用されているバンドセットだ(C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


ゴールデンカップのジュークボックスからは、日本人が初めて聴くリズム&ブルースなどの洋楽が多く流れていた。直接アメリカで買い付けたレコードを、すぐに楽しむことができたため、文字通りの最先端だった。その後、店でバンドの生演奏をするようになり、今でいうライブハウスのようなスタイルに変化。

当時のテレビ局のスタッフの耳に入り、日本で一番カッコイイ場所として定着し始めた。その頃には、銀座や六本木で遊んだあとに、本牧を訪れるというのがステータスにもなっていたほど。著名人も多く訪れ、勝新太郎や石原裕次郎もよく訪れていたという。その理由は、演奏をしていたのが、かの有名なバンド「ザ・ゴールデンカップス」だったからだ。

全盛期のメンバーは、デイヴ平尾、エディ藩、マモル・マヌー、ルイズルイス加部。のちに、ケネス伊東、ミッキー吉野、柳ジョージという日本を代表するミュージシャンたちも加入した実力派バンド「ザ・ゴールデンカップス」。演奏するのは英語の曲が主で、当時はグループサウンズ全盛の時代だったが、彼らの音楽はそれとも違うものだった。バンドの演奏は20:00〜23:00までで、それを聴くために全国からファンが訪れた。そのうちに、レコード会社の関係者の目に止まりデビュー。「長い髪の少女」など日本語の曲も歌っていたが、彼らが本当に演奏したかったのは洋楽で、その姿勢は一貫していた。

その後もメンバーチェンジを繰り返し、自分たちが好きな音楽を作り続けた。それが伝説となり、のちに矢沢永吉などもここから輩出することになる。自身の40周年の際にも記念に訪れるほど、矢沢自身の音楽に深く影響を与えた場所だったということがうかがえる。

カウンターの後ろには、ザ・ゴールデンカップスのメンバーのパネルも(C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


現在もレストラン・ライブハウスとして健在


常連客はよくカウンター席に座るという。ステンドグラスには横浜らしくカモメが隠れている(C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


1981(昭和56)年~放送の「もっとあぶない刑事」では「スナック ゴールデンカップ」としてセリフにも登場するなど、ドラマや映画のロケ地としても有名となった。オーナーの上西さんは「スナックじゃないけどね。うちはあくまでもレストランバーだから」と笑って言う。確かにピザやハンバーグなど、メニューはレストランだ。調理担当のスタッフはいるが、今でも上西さんが厨房に立つ日もあるのだそう。この店のファンや常連客は「この店はやっぱりバンドのライブ。そうじゃなくちゃゴールデンカップじゃないよね」と、ゴールデンカップでライブ演奏をするバンド誘致も。今では、月に約10本のバンドライブを受け入れている。

敷居の高いイメージもするが、オーナーに会いに今も全国からファンが訪れる。日本中が本牧に注目していた時代、「リキシャルーム」「イタリアンガーデン(現IGとは異なる)」「ゴールデンカップ」の3つの店がその時代の本牧を作っていた。だが、初代オーナーが場所も変わらずに営業を続ける店は、今はここだけだ。時代により形が変わっても、店を守ってきたことこそがレジェンドと呼ばれるゆえんだ。ぜひ訪れて、当時の雰囲気を感じて欲しい。

当時はダンスホールとなっていたフロアだが、今は落ち着いて食事ができる(C)KADOKAWA 撮影=後藤利江


【横浜ウォーカー】

取材・文=濱口真由美

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