コーヒーで旅する日本/関西編|何でもない日々の余白を引き受ける。「井尻珈琲焙煎所」が体現する“珈琲屋”の本領

関西ウォーカー

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全国的に盛り上がりを見せるコーヒーシーン。飲食店という枠を超え、さまざまなライフスタイルやカルチャーと溶け合っている。なかでも、エリアごとに独自の喫茶文化が根付く関西は、個性的なロースターやバリスタが新たなコーヒーカルチャーを生み出している。そんな関西で注目のショップを紹介する当連載。店主や店長たちが気になる店へと数珠つなぎで回を重ねていく。

抽出やハンドピックは小さな照明の下で。カウンターに座ると手元に目が引き付けられる


関西編の第65回は、大阪市大正区の「井尻珈琲焙煎所」。店主・井尻さんは、独学で焙煎を始め、会社勤めの傍ら豆の販売や出張喫茶を経て開店。縁あって出会った古い純喫茶を改装した店内は、芳しいコーヒーの香りとレコードの音、心地よい静謐に満たされている。「現実から離れて、ゆっくり過ごせる店でありたい」という井尻さんが大切にするのは、日々供するコーヒーから生まれる日常の“余白”。ここで過ごす時間が体現する、“珈琲屋”のあり方とは。

店主の井尻さん


Profile|井尻健一郎 (いじり・けんいちろう)
1979年(昭和54年)、大阪市生まれ。20代前半の頃、コーヒーに関心を持ったのを機に自宅で手焙煎を始め、近しい人に豆を配るうちに評判が広がり、豆の販売をスタート。その後、10年の会社勤めの間に出張喫茶でイベント出店も経験し、2016年、大阪市大正区に「井尻珈琲焙煎所」を開業。

下町の雑多な路地に潜む、心地よい日常の余白

雑多な飲食店がひしめく路地にあって、“珈琲専門店”の看板と焙煎機の煙突が目印

大阪市内でも沖縄県出身者が多く、“リトル沖縄”とも呼ばれる大正区。駅前の入り組んだ路地には、沖縄料理店や居酒屋など小体な店が寄り合うように軒を連ねる。下町風情漂うなかにあって一軒、静かな佇まいを見せるのが「井尻珈琲焙煎所」の店構え。扉を開けると、雑多な路地の空気は一転、うそのように凪いで、レコードの音とコーヒーの香りに満たされる。「ここは元々、長年続いた純喫茶の跡。縁あって、この場所と出会ったのが、店を始めたきっかけ」という店主の井尻さん。昼なお薄暗い空間に目が慣れると、心地よい静謐に気持ちも徐々にほどけていくのが感じられる。この場に身を置いてコーヒーを啜るひとときには、井尻さん自身が喫茶店で過ごしてきた時間が重ねられている。

井尻さんにとって、憩いの原風景ともいえるのが、20歳の頃から通い続ける京都の老舗・六曜社。「20年以上通っていますが、毎回、カウンターに座って、コーヒー飲んで、帰るだけ。毎日来ているであろう常連さんも、皆さん“ホット”と注文して、しばらくゆっくりして帰る。特別なことはない、でも、それがいいんです。ここで初めてコーヒーが旨いと感じて、帰りに器具を買いそろえたのが、コーヒーとの縁の始まりなんですが、そのとき、どんなコーヒーを飲んだかは覚えてなくて。感じたのは、“気持ちのいい時間だったな”ということだけ。その後もずっと通っているのは、自分にとって、そこが常に一番心地よい場所だからだと思います」

奥行きの深い店内に入ると、外の喧騒を忘れさせる静謐な空気に包まれる


当時は会社勤めをしていたが、それ以来、自宅で手網焙煎も始め、焙煎にも楽しみを見出した井尻さん。自分だけでは使いきれない豆を知人に分けているうちに、人づてに評判が広がり、豆の販売を始めることに。本人はそのつもりはなかったそうだが、やがてイベントへの出店の話が舞い込み、仕事の傍ら、2年ほど方々に出張喫茶に出向く日々が続いた。

「それまで飲食店の経験がなかったので、人のためにコーヒーを淹れたのは出張喫茶が初めてのことでした。ただ、紙コップで提供することにはどこか違和感を覚えて。イベントだと、その場で淹れて、渡してそれっきり。でも店は、その場で過ごす時間を含めてのコーヒーで、お客さんとの関係もずっと続いていくので、同じことをしていてもまったく別物だと感じていました」と振り返る。この頃には、今はなき東京の名店・大坊珈琲店にもたびたび足を運ぶようになり、店主・大坊勝次さん、六曜社地下店の店主・奥野修さんの立ち居振る舞いから受けた影響は大きく、井尻さんにとって“珈琲屋”のあるべき姿を体現する存在になっていた。

レコードは、その日に合わせて井尻さんが選曲。ジャズからソウル、現代音楽まで幅広い


当時、会社勤めは10年で辞すことは決めていたが、意外にも当時、自分で店を開くことまでは考えていなかったという井尻さん。ただ、節目の10年目が終わろうという時に、この古い純喫茶の跡に出会って、気持ちは大きく変わる。「最初に見た時は中もボロボロでしたが、ここで、自分が店に立って、コーヒーを淹れている姿が、はっきりイメージできたんです」。その直感に導かれるようにして、大工やデザイナーの知人の力を借りながら年季を重ねた店を改装。2016年、「井尻珈琲焙煎所」の看板を掲げた。

ピンスポットの照明に浮かぶ豆の膨らみ、立ち上る香りがいっそう際立つ


珈琲屋の仕事は、淹れることと場の空気を整えること

入口の横に鎮座する焙煎機。豆を焼くと店内に芳しい香りが広がる

店内には当初からレコード棚と本棚が置かれ、自身が普段から親しむコーヒーと音楽と本という組み合わせが、そのまま店を形作る柱になっている。もちろんベースには、これまで自身が過ごしてきた喫茶体験があるが、「単に真似するのでなく、今までの体験をいかに自分なりに昇華するかを考えました。ただ、下町気質の土地柄で、初めはちょっと尖った店に見えたかもしれません」と苦笑する井尻さん。ここでは開店以来、“話し声は小さめに”、“パソコンやタブレットは使用不可”、“入店は1組3人まで”といった、いくつかの制約を設けてきた。ただ、それらはあくまで心地よい時間を作る気遣いの一つとして、お客に促してきた腐心の跡だ。

黒々とした豆の艶めきからも、濃密な味わいが伝わってくる


「珈琲屋は、日常を離れて“余白”を作る場所。だから、店内で目に見える情報をできるだけ少なくしたかったんです。ここでは、コーヒー自体より、コーヒーを飲む理由、店に来る理由が大事。最近はテイクアウトも当たり前になったので、余計にそこに意識を置いています。コーヒーを一杯飲む間、ゆっくりしたい人が、落ち着いて過ごせる店でありたい」と井尻さん。扉を開け、席に着き、コーヒーを飲んで帰る。ただそれだけの、何でもない日々の余白を引き受ける場こそ、井尻さんが考える“珈琲屋”の本領だ。

界隈に受け入れられるまでに3年ほどかかったというが、この店が醸し出すくつろいだ空気は、訪れるお客と共に作り上げてきたもの。「いろんな人が息抜きしに出入りして、お互いの気遣いがあって周りの人も気持ちよく過ごせるという意味では、珈琲屋は銭湯と似ていて。人と人のいい距離感があってこそ成り立つ場だと思います」
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本棚の書籍は1段ごとに異なる古書店が選書。店内で読むだけでなく購入も可能


時には、折り悪く店に入れないお客もいるが、店先でのウェイティングは不可。一度、出直すことになるが、井尻さんは意に介さない。「入れるかどうかは、もうタイミングだけの話なので。でも、毎日来る方は上手いこと見計らっているのか、なぜか絶対入れるんです(笑)。かと思えば、朝から来て、昼時だけ抜けて戻ってきて、閉店まで居続ける方もいます。普通、長居は敬遠されますが、満席になるのは一時のことで、これもタイミング次第。だから、お客さんが席を譲る必要はなくて、逆にそこは気にされないようにしています」。訥々と話す井尻さんは、普段、お客と頻繁におしゃべりすることはない。それでも、互いに違うことをしながら、確かに同じ時間を共有している一体感が、この店の居心地よさの所以。「珈琲屋の仕事は、淹れることと、場の空気を整えること」とは、まさに言い得て妙だ。

奈良のレコードショップ「PASTEL RECORDS」セレクトのCDも販売。月1回の出張販売も開催


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