コーヒーで旅する日本/関西編|何でもない日々の余白を引き受ける。「井尻珈琲焙煎所」が体現する“珈琲屋”の本領
関西ウォーカー
誰もが“いつもと同じ時間”を過ごせる場所に

「純粋に一杯のコーヒーだけで、人を感動させるのは難しい。カップの中だけでなく、この場所にいてこその味わいがある」という井尻さんにとってコーヒーは、人それぞれの時間を生み出すための飲みもの。当初はブレンド、シングルオリジンの豆を数種ずつ置いていたが、今は月替わりのブレンドのみ。メニューもドリップコーヒーとミルク珈琲だけと、潔いほどにシンプルだ。「一つのブレンドを追求する方が、自分の性に合っているし、品種や銘柄をあれこれ選ぶような店でもないので。コーヒーは、生豆・焙煎・抽出のうち、2つの過程で人の手業が入っています。だから、素材だけで味は決まらないし、豆が同じでも、ブレンドの配合を変えても、やはり、その人らしい味わいが出てきます」

根っからの深煎り党だけに、ブレンドは配合を変えながらも、焙煎度は一貫して深煎り。丁寧にネルドリップした一杯を口に含むと、とろっと滑らかな口当たりと共に、バニラを思わせる芳香が満ちる。ビターな余韻を残して広がる、黒蜜のような甘さには思わず目を見張る。濃密にして芳醇な味わいは、薄闇に溶け込む静かな空間にいると、いっそう染み渡るようだ。どちらかといえば、浅煎りは素材の持ち味が主体なのに対して、深煎りは焙煎由来の味作りが主体。香味の奥から湧いてくる甘味はいわば、人の手による火入れの技の賜物だ。
とはいえ、店ではコーヒーについて多くを語ることはなし。もちろん、産地や精製方法などといった豆に関する情報も一切ない。「浅煎り、深煎りの違いは音楽のジャンルみたいなもので、嗜好は人それぞれ、あくまでお客さんの時間を邪魔しない味で、好みに合えばそれでよしという感覚。作り手としては“されどコーヒー”という思いはありますが、お客さんは“たかがコーヒー”という気持ちでいいと思います。決して、そんな崇高なものではないですから(笑)」。井尻さんにとって大切なのは、コーヒーという“モノ”よりも、コーヒーを飲む“コト”。味を伝えるより、カップ片手に過ぎる間にこそ価値がある。

「特に大阪の人は、みんな忙しないから(笑)。ゆっくりコーヒーを飲む場所がもっとあっていいと思うんです。自分が20年、30年続けられたら、少しはこういうスタイルの店も増えていくかもしれませんね」。喫茶店は、飲食店でありながら飲食を目的としない、ある種、矛盾した存在でもある。その伝でいうなら、誰もが気軽に、一日の余白を求めて立ち寄るここは、コーヒー専門店ではなく、やはり“珈琲屋”と呼ぶのが似つかわしい。「自分も含めて、“この場所なら、いつも同じ時間を過ごせる”、という安心感で気持ちが救われる人がいます。初めて来ても居心地のいい店でありたいし、再訪された時に“前と変わらないな”と思ってもらいたい。1回きりで来ない方もいるけど、ふとした時に思い出してもらえるような、そういう存在になれればうれしいですね」

稲田さんレコメンドのコーヒーショップは「六珈」
次回、紹介するのは、神戸市の「六珈」。
「店主の松山さんと知り合ったのは、お互い酒場が好きで、一緒に飲みに行ったのがきっかけ。以来、よく酒場で話をする機会が多いですね。お店でも、お客さんとの距離の取り方が抜群にうまい、まさに気遣いの人。コーヒー屋の先輩として尊敬する存在です。六甲の山手で開店して10年目。近年、自家焙煎を始められて、抽出方法がうちとは違いますが、一口目から風味の密度があって、印象に残る味わいです」(井尻さん)
【井尻珈琲焙煎所のコーヒーデータ】
●焙煎機/フジローヤル 3キロ(直火式)
●抽出/ハンドドリップ(ハリオ)、ネルドリップ
●焙煎度合い/深煎り
●テイクアウト/ なし
●豆の販売/ブレンド1種、100グラム700円
取材・文/田中慶一
撮影/直江泰治
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