お経は誰のために読まれるの?普段の生き方について私たちが考える機会/ヤンキーと住職【作者に聞いた】
宗派によって、読まれるお経は違う





住職の代打として堂々とお経を読み上げるヤンキーに、檀家のおばあさんも思わず「ええ声~」とうっとり。
以前のインタビュー
で近藤丸さんに「お経にはさまざまな悩みの解決方法やお釈迦さまからのメッセージが書かれている」と教えてもらったがその数はとても多く、宗派によって用いるお経は違うのだそう。
「お釈迦さまは、さまざまな人の悩みや資質に合わせて、臨機応変に教えを説かれました。最終的には『八万四千の法門』と呼ばれるような多くの教えを、お釈迦さまは残したといわれています。現代の私たちが法要や日々のお参りの中でお経を聞く中心的な意味は、私たちが今ここで教えを聞き、大切なことに目覚めていくということになってきます。
さて、仏教には沢山の宗派がありますが、『どのお経を大切にするか』ということが宗派の違いを生んだと言っても間違いではないでしょう。例えば『般若心経』は多くの宗派でお勤めされますが、浄土真宗では用いません。大事にしていない訳ではなく、用いないのです。したがって、供養で読むお経も宗派によって異なってきます。
浄土真宗では、『浄土三部経』(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)が根本のお経です。これらには阿弥陀如来という仏さまが、どのようなことを願っているのか、どのように仏さまに成られたのかなどが説かれています。また、私たちがどのような生き方をし、どういうことで苦しんでいるのか、何に悩んでいるのかということも書かれています。
例えば『仏説無量寿経』の中には次のような言葉があります。『世間に生きる人々は、軽薄で俗っぽく、急ぐ必要のないことで、急ぎ、皆が争い合っている…(中略)…それは、貧しい者も富める者もそうなのである。どういう生まれかとかに関らず、皆がそうである。富める者は物が有るゆえに悩みが多くなり、貧しいものはないことを悲しんで、貧富ともに苦しんでいる。』『田を持っていれば田を持っている事で悩み…(中略)…田が無ければ、田が欲しいと悩む。…このように憂え苦しんで求め探しても、思うように得ることはできない。』(『仏説無量寿経』意訳)
ここに書かれているのは、我々の痛ましい姿そのものではないでしょうか。お経は鏡のように私たちの生き方を照らし、問いかけてくるのです。では、このような争い傷つけあうあり方をどうすれば超えていけるのか?お釈迦さまの説かれた教えが、お経に書かれています。今その内容を全てお伝えするのは難しいですが、一人ひとりお経に直接あたり、時間をかけて確かめてみることが大切だと考えています」