「オニツカタイガー」はどうやって生まれた?神戸から世界に飛躍した「アシックス」の創成期に迫る!

東京ウォーカー(全国版)

Twitterで
シェア
Facebookで
シェア

オリンピックをきっかけに世界に名を轟かせたオニツカ

福井さんによれば、このバスケットボールシューズの成功に加え、1956年に開催されたメルボリンオリンピックでオニツカ製シューズを履いた選手が金メダルを取ったことで、喜八郎は大きく弾みをつけたという。

「バスケットボールシューズの後、バレーボールシューズ(1952年)、マラソンシューズ(1953年)、レスリングシューズ(1955年)など、競技に合わせたモデルを続々と作っていきました。1956年にはメルボルンオリンピックで、オニツカのシューズを履いた選手がレスリングで2個金メダルを取った。たった2名で始めた会社が、7年後に世界一になれたというわけです。

さらに、1964年の東京オリンピックが決まります。今度はそこに照準を定めて、競技専門シューズを作っていきました。『こっちから世界各地に出向くことはできないが、各地から一流の選手たちが日本に一同に来てくれる。これは千載一遇のチャンスだ』として、喜八郎は世界に出る足がかりを作ろうとしました」

この1964年の東京オリンピックまでにオニツカは、サッカースパイク、フェンシングシューズ、陸上短距離シューズなどをリリース。オニツカの競技専門シューズを履いた世界中の選手によって47個ものメダルを獲得することになった。“日本のオニツカ“の名は世界中に知れ渡ることになったが、同時に世界各国のスポーツシューズ専門メーカーとの激化にもつながり、商業上では本格的な世界戦がスタートする。

オニツカタイガーの定番「メキシコライン」の秘密

オニツカの競技専門シューズが世界中の選手に受け入れられたのは、機能性だけでなく、優れた意匠にもあったようだ。1950年代までの競技専門シューズは無味乾燥なデザインのものが多かったところに、オニツカは機能性に加えデザイン性にこだわっていた。

「それまでの各競技は『スポーツ』というより『体育』みたいな印象が強かった。だから地味なシューズが多かったんだと思いますが、オニツカではアルファベットの『U』と『I』を模したオリンピックを象徴するようなストライプデザインを作りました。当初、スポーツシューズの営業の人の間では『トレンドからかけ離れたデザインは…』と反対されたそうですが、それが世界中の選手たちに受け入れられ、大ヒットとなりました」

この意匠面での支持を受け、オニツカは1968年に開催されたメキシコシティーオリンピックに先立ち、1966年に「メキシコライン」を発表する。今日まで続く「アシックスストライプ」と呼ばれるラインを施したモデルである。

「ひと目見て『オニツカのシューズだ』とわかるデザインを、と社内コンペで考案されたものです。神戸港の海の波をモチーフにしたデザインでしたが、レントゲンで写真を撮り、アスリートたちに負荷がかからないかなど科学的な根拠をもとに採用されたものでもあります。当初、喜八郎はオリンピックごとにデザインを変えるつもりでいたのですが、この『メキシコライン』が世界中に認知されたことで、このデザインをそのまま継承し続けることにしました。以降、しばらくの間は『オニツカライン』と呼び、現在の『アシックスストライプ』まで継承されることになります」

世界中にその名を知らしめることになったオニツカの「メキシコライン」(1966年)のシューズ

1966年の「メキシコライン」は、今日のアシックスまでその意匠が継承され続けることになった


名前に「タイガー」がつくのはなぜ?

ところで、オニツカや後のアシックスに冠される「タイガー」という名称だが、実は1950年のバスケットボールのファーストモデルから愛称として使われていたという。その理由は、兵庫県に拠点を持つ阪神タイガースとなんらかの関連性があったのかと思いきや、全く関係がないんだとか。

アジア圏最強の動物であるトラを喜八郎がいたく気に入っていたことと、「虎は一日に千里を走る」ということわざも好きだったようで、これにちなんで命名したという。

「競技用シューズメーカーでは、プーマがピューマをモチーフにしていたし、リーボックもアフリカでのガゼルに対する呼び名です。俊敏な動物の名がブランド名に馴染むということで、オニツカでも『タイガー』という呼称をつけたのですが、この言葉単体での商標登録はできなかった。そこで、『タイガー』単独は使わずに『オニツカのタイガー』、英語圏では『Onitsuka’s Tiger』として使われ、その後1965年に『オニツカタイガー』(Onitsuka Tiger)と呼称統一されます。として使うようになりました。1977年にオニツカと他2社が合併して『アシックス』が誕生しますが、このときは世界的に認知度が高い『オニツカタイガー』を継承する形で『アシックスタイガー』ブランドを展開することになりました。これはしばらく続きましたが、1991年に初めて『タイガー』を廃し、『アシックス』に統合されました」

1977年に3社合併の形で誕生したアシックス。1991年までアシックスタイガーをブランドとしていたが、以降しばらくは「タイガー」を廃止し、「アシックス」をブランドとした


1990年代「ハイテクスニーカーブーム」で大苦戦

しかし「タイガー」をやめた1990年代、世界的なハイテクスニーカーブームが巻き起こり、質実剛健の競技用シューズ作りを貫いていたアシックスは一時経営が苦しい時期があったという。

ただし、ブームはあくまでもブーム。その揺り戻しとして、1990年代後半にはレトロスポーツファッションの支持が高まり、この時期に再評価を受け、今日まで続く根強い支持につながったそうだ。

「ハイテクスニーカーブームの時代は確かに苦しかったです。しかし、あのブームが去ったおかげで、レトロスポーツファッションの支持が高まりました。当初はあらゆる古典的なブランドが再評価されましたが、消費者もよく知っており、『ストーリーを持つ本物のアスリートブランドでないと買ってもらえない』という事態が起きました。アシックスはオニツカタイガーとアシックスタイガーの時代からあらゆる競技で数多くの成績を残していたので、改めて確固たる評価をいただくことにもなりました」

アシックスにとっては厳しい時代だった1990年代。この時代に誕生したゲルバーストの初代モデル


喜八郎の思いを引き継ぐアシックスのこれから

神戸を舞台にたった2名で立ち上がった鬼塚商会から、世界中の競技用シューズブランドと肩を並べるまでの73年間。最後に、今の想いを福井さんに聞いた。

「73年前、喜八郎が鬼塚商会を起業したときは『弱者の戦略』しか取りようがなかったと思いますが、そのやり方は本当に正しかったと思います。そして、当初喜八郎が思い描いていた『青少年育成に役立つ仕事をしたい』といった願いは十分実現できたのではないかと思います。これからはこれまでに行ってきた競技用シューズの開発だけでなく、デジタルを駆使した個人により歩み寄ったサービスを展開していきたいです。今後もアシックスにもご注目いただければ幸いです」

鬼塚喜八郎が創業当初に掲げた思いは、今日はもちろん、さらなる未来にも受け継がれている


取材・文=松田義人(deco)

  1. 1
  2. 2

この記事の画像一覧(全9枚)

キーワード

テーマWalker

テーマ別特集をチェック

季節特集

季節を感じる人気のスポットやイベントを紹介

いちご狩り特集

いちご狩り特集

全国約500件のいちご狩りが楽しめるスポットを紹介。「予約なしOK」「今週末行ける」など検索機能も充実

お花見ガイド2024

お花見ガイド2024

全国1300カ所のお花見スポットの人気ランキングから桜祭りや夜桜ライトアップイベントまで、お花見に役立つ情報が満載!

CHECK!2024年の桜開花予想はこちら

ページ上部へ戻る