半農半漁ののどかな町から別荘の立ち並ぶ町へ変貌を遂げた「葉山町」の今と昔

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東京から南西へ直線距離で約50kmの三浦半島の入口に位置する葉山町。西は相模湾に面し、東には山々を背負い、海と山の両方の恩恵を授かる。古くから三浦半島の主要街道が通る重要地点として栄えてきた。明治27(1894)年の御用邸造営を機に、夏涼冬暖の温暖な気候と相まって、その気候・風土・文化の素晴らしさが広く知れ渡ることとなった。

空気が澄んでいる日は富士山の麓から頂上までが葉山からくっきり見える(C)KADOKAWA 撮影=奥西淳二


その後、大規模団地開発などを経て人口が増え、閑静な住宅地を形成した。現在は人口約33,000人(2018年4月現在)ほどの町だが、南北4kmにも及ぶ美しい海岸線は「日本の渚・百選」や「世界のベストビーチ100」にも選ばれ(一色海岸)、夏には多くの海水浴客でにぎわう。そして、葉山牛や葉山野菜をはじめとする「葉山ブランド」の品々は全国的にも人気を集めている。多くの人々の嗜好を満足させる葉山の文化はどのようにつくられたのか、そのルーツを探ってみよう。

「葉山村」の誕生と御用邸造営で転機を迎えた明治時代


古くは半農半漁で生活をしてきた葉山の人々。現在の「葉山ブランド」を築くにあたり、その転機は明治時代にあったという。その経緯について「葉山郷土史研究会」の鈴木雅子さんに話をうかがった。

お話をうかがった葉山在住、葉山郷土史研究会の鈴木雅子さん。町制90周年を記念して発行された「葉山町の歴史とくらし」の編集長もつとめた(C)KADOKAWA 撮影=伊東武志


「1889年、この地で独立していた6つの村が合併して葉山村を形成しました。そのうち3つの村は[海付き村]と言われ、海に面しており、漁船を所有し漁業も営んでいました。残りの3つは内陸の村で、山間の棚田でお米をつくっていたので、合併により、必然的に葉山には漁業と農業が共存するようになりました。さらに葉山には、三浦半島の江戸から明治にかけての主要街道である[浦賀道]と[三崎道]が通り、幕末の海防を担う雄藩の浦賀往還の武士や旅人の通行が頻繁でした。この2本の官道の分岐点があった葉山の堀内村は三浦半島の往来において、特に重要な位置を占め、商いをする人も多く、茶屋や宿場町としても栄えました。例えば、現在も老舗和食店として有名な[日影茶屋]も、かつては立場茶屋として繁盛していたんですよ」(鈴木さん)

1914年の葉山村時代の海岸の様子。現在の一色海岸で、写真中ほどの緑が多いエリアは御用邸にあたる【写真提供/葉山郷土史研究会】


また、「葉山村が誕生した1889年、横須賀線が開通し、さらに葉山を訪れる人が増えました」(鈴木さん)という時代の流れのなか、ベルツ博士(東京医学校教師・皇室の侍医)やマルチーノ駐日イタリア公使が葉山に来遊。この地の温暖な気候と自然豊かな地形が“保養地として最適である”と推奨したことが大きな後押しとなり、1894年葉山御用邸が造営されるに至る。

このころの、別荘建設ブーム到来について、鈴木さんはこう語る。「葉山の最初の別荘建築の記録は1888年。御用邸造営の少し前になりますが、御用邸が造営されてからは、葉山の自然環境に加えて、治安も保たれた高級別荘地としてますます世間に認められるようになります。御用邸造営後には、有栖川宮や秩父宮の別邸なども建てられ、名実共に保養地としての葉山の名を広く知らしめることになりましたね。以降、華族をはじめ、政官界の要人、陸海軍の将校、学者や実業家にいたるまで、次々と別荘が建てられ、大正2(1913)年には91戸、昭和9(1934)年のピーク時には487棟もの別荘が存在していたという記録があります」

1967年に桜山丘陵を切り開き、大規模住宅地が開発された頃。初期の入居者は都心への通勤時にバスの運行がなく苦労をしたという【写真提供/根岸稔】


戦後は米軍関係者のパーティなどにも活用されていたこれらの邸宅は、バブルがはじけた後に売却されたり、取り壊されたりもしたが「澄宮(三笠宮)別邸として竣工された附属邸の跡地は現在、[葉山しおさい公園・博物館]として公開されており、町の史跡に指定されています。ほかにも幼稚園併設の[イエズス孝女会修道院旧館]となった[東伏見宮別邸]など、いくつかが現存しており、葉山の貴重な文化遺産となっています」

「大正天皇崩御・昭和天皇皇位継承の地」の町指定史跡となっている「葉山しおさい公園」。約5500坪の広い敷地で町民の憩いの場として活用されている


観光地としての人気と葉山ブランドの育成


別荘を構える富裕層が葉山に集まるにつれ、地元の商店や料理店はその嗜好にこたえるために努力を重ね、次第に「葉山ブランド」という言葉と概念が形成されていった。「葉山コロッケ」で有名な老舗「葉山旭屋牛肉店」は良質な和牛肉を取り揃え、一色にある「八百藤商店」は昭和天皇のころから御用邸に野菜を提供、今も新鮮な地産野菜を取り扱う。これらの老舗商店による“良いものへのこだわり”の精神は「葉山ブランド」の育成に寄与してきた。そしてその精神とブランド力は現在、商店のみならず若い起業家やアーティストにも支持されている。彼らが活動拠点を葉山におくことも増え、新たな世代による新たな文化も生まれつつある。

有名な老舗「葉山旭屋牛肉店」ハヤマステーション店の「葉山コロッケ」(C)KADOKAWA 撮影=宮川朋久


そんな商店主たちの努力による葉山のビジネス・文化醸成に加えて、昭和に入ってからは、海水浴が大衆化されたことと、石原慎太郎が1955年に逗子の実家で執筆した「太陽の季節」(文学界)でデビューを果たし、弟の石原裕次郎主演の映画の舞台にもなったことで、4つの海水浴場を有する葉山は観光客が押し寄せるようになった。当時の海は芋の子を洗うようだったとも言われている。

そしてもうひとつ、葉山の文化と海を語るうえではずせないものがあると鈴木さんは言う。「昭和に入ってからの海水浴ブームで有名になった葉山の海ですが、明治期からヨットとの関わりが深いことでも知られています。慶應義塾の水泳部が1902年から葉山村堀内で合宿を始め、彼らが伴走用の備品として1912年に初めて、森戸沖でセーリングヨットを浮かべたという記録が残っています。それが日本の近代ヨット史の草分けではないかという説がありますし、石原裕次郎の映画の影響もおおいにあります。今でも葉山港には[日本ヨット発祥の地]の石碑が飾られていますよ」(鈴木さん)。その葉山港は1964年の東京オリンピック時にはヨットレースのサブ会場となり、ますます「ヨットの町」という色を濃くしていくことになる。

【写真を見る】葉山港鐙摺(あぶずり)に設置された「日本ヨット発祥の地」のセール型石碑。現在も葉山港は葉山マリーナと並び、葉山の海の玄関口となっている


このように葉山には邸宅などの「歴史的建造物」、発祥の地でもある「ヨット」、観光客に人気の「海水浴場」など多くの財産があり、かつて商店主たちが築きあげた「葉山ブランド」という言葉は、現在、これらと合わさり、葉山の歴史・文化を含めたいっそう広い意味で活用されるようになっている。

また、この「葉山ブランド」のプライドを自覚している住民が多いのも葉山の特徴だ。それを証明するように、町には電車が走っておらず、レンタルDVD店などは存在しないが、町民はその不便さよりも環境の良さとジモトの商店の魅力を尊重している気風がある。町民自身に“葉山好き”が多いこの町は、日常生活を楽しむためのイベントの創出も盛んで、1966年にはじまった「葉山海岸花火大会」や、「港の朝市」としてメディアでよく紹介される「葉山マーケット日曜朝市」などは住民も観光客も楽しめる個性的なイベンドだ。さらに、葉山の魅力を発信し続ける役場公式のインスタグラムには町人口の半数にも及ぶ人数のフォロワーがついているというのも納得できる。

「葉山マーケット日曜朝市」の様子(C)KADOKAWA 撮影=高嶋佳代


イベント時や夏の海水浴季節に訪れてにぎわう葉山を楽しむのもよし、平常時の静かでのんびりとした時期に町内に残る邸宅を眺めながら散策するもよし、太陽と海が恋しくなるこれからの季節に訪れてほしい町の一つだ。

【参考文献:「葉山町の歴史とくらし」】

【取材・文/鈴木秋穂、撮影/伊東武志、奥西淳二、宮川朋久、高嶋佳代】

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