『マン・イン・ザ・ミラー』連載 第40話

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HOME MADE 家族のKUROがサミュエル・サトシ名義で発表した小説『マン・イン・ザ・ミラー 「僕」はマイケル・ジャクソンに殺された


何時間くらい居ただろうか。 

気がつくと、お店に入ってからゆうに10時間を越え、喫茶店の閉店時間が間近に迫っていた。僕と尾藤さんは急いで会計を済ませお店をあとにした。

店の外に出ると湿気が体にベッタリと張り付いた。もうすぐ梅雨の時期に入る。池袋東口に向かう道は、最終電車に乗り遅れまいとする人たちでむせ返っていた。

「すみません。ギリギリになっちゃいましたね。駅まで急ぎましょう」

あまりの人混みで身動きがとれなくなり、僕は思わず腕を曲げて肘の内側辺りに口をつけた。強い煙草の匂いがした。外気に触れると自分の居た場所がどれだけ臭かったのかが分かる。

尾藤さんは青いコートをすっぽりと上から羽織り、インナーに白いシャツ、ズボンはマイケルが『THIS IS IT』で使用していたような柔らかい生地のエドハーディーのブルドックラウンジパンツを穿いて、僕の少し前をうつむき加減に歩いていた。足元はローファーだった。

決して大きな身体をしているわけではない。おそらく実際のマイケルよりも背は低い。よく見ると、髪の毛には白髪が混じり始めている。無理もない、もう四十を過ぎている。きっとここにいる誰もが、この人がひとたび踊り出したらマイケル・ジャクソンと同じ動きをするとは思わないだろう。尾藤さんは尊大なオーラをまとうわけでもなく、肩をすぼめながら雑踏の中を縫っている。

インパーソネーターとしての壮絶で目まぐるしい半生を聞かせてもらった。

それは僕の想像を遥かに越える世界だった。もちろんこれはひとつの例に過ぎず、あくまでも尾藤さんの苦悩と挑戦と飛躍の軌跡である。インパーソネーターの数だけ正解があっていい。

願わくは、もっと正統な評価を世間から受けて欲しいと思うのだが、悲しいかな、影が濃いのは、その光が強いからだ。尾藤さんが素晴らしければ素晴らしいほど、マイケルの特異さが際立ってしまう。

二つは決して重ならないからこそ成立するのであって、光と影が同化することはない。オパさんが望んだ、アーティストとしての美しさを追求すればするほど、悲しさがそれを追い越していく。

美しいがゆえに、悲しいのだ。

「これは一人の人間が自分の表現に果敢に挑戦する男の記録だ」

尾藤さんは昔、コングくんにそう言われたことがあると言う。

その挑戦は崇高だが虚しく、無邪気で残酷だ。なぜならその熱量と純粋さに応えられるだけの十分な結果が未来に待っていないからだ。

たとえごく身近な人たちの記憶には鮮明に残ったとしても、音楽史の記録には残らない。いや、もっと正確に言えばインパーソネーターは身を賭してマイケルを歴史に残すのだ。まるで魂をつなぐ聖火ランナーのように。

ただそれでも忘れてはならないのは、尾藤さんを始めとするMJ-Soulは数々のオーディションを勝ち抜き、マイケルの前まで辿り着いた叩き上げのチームだということだ。世界のキング・オブ・ポップから直に賞賛の言葉をもらい、その後SHIBUYA-AXを15分で即完させ、インパーソネーターとして前代未聞の規模で幻の『THIS IS IT』公演を成功させた。これは紛れもない事実であり、確固たる実力だ。

好きが高じて集まった超一流の素人集団。

プロのギリギリ一歩手前。

モノマネとは少々趣を異にする、本物のニセモノ。

まるでママさんバレーがオリンピックで金メダルを獲るような快挙だ。

尾藤さんは都内に住むことなく、今も埼玉に居を構えている。終電を逃してもタクシーで帰れるという距離ではない。残された時間はあまりないが、最後にもう少しだけ聞いてみたいことがあった。

「尾藤さん!」

僕が大声を張り上げると、他の通行人たちと一緒に尾藤さんが一瞬こちらを向いて歩くスピードを緩めた。

「はい?」

「あの、最後にちょっとだけ聞きたいことが」

人通りが激しかったので、僕らは池袋東口の改札横にある柱に身を避けた。

「あの、オーガナイザーの人から言われた例の発言なんですが」

「ああ、君のファンじゃないよ、マイケルのファンだよってやつですか」

尾藤さんが代わりに言うと、目を逸らしてふっと淋しそうな表情を浮かべた。

「あ、そうです…。すみません、しつこくて。ただ、今の尾藤さんだったらなんて答えるのかなと思いまして」

どうやら僕は尾藤さんがふいに浮かべる淋しい表情に弱いらしい。それを見るとなんだかいつも取り乱してしまい、うまく喋ることができない。現に今も困惑している様子を見ると胸が締め付けられてしまう。ちょっと意地悪な質問だったかなと僕は反省した。

「あの、別に無理に答えなくてもいいですからね」気まずくなってそう言うと、尾藤さんは地面の一点をしばらく見つめてから一度だけ大きく頷き、しっかりと僕の目を見てこう言った。

「やっぱり僕のファンかな…」

その目は相変わらず水晶玉のように澄んでいて奇麗だったのだが、同時に有無を言わさぬ迫力があった。そしてさらにおどけた表情でこう付け加えた。

「その発言は、僕のファンに失礼です。以上!」

その「以上!」の言い方がオパさんみたいで、僕らはぷっと吹き出した。

「そうですよね! 本当にそうですよね!」

僕は尾藤さんのその力強さが嬉しくて、何度も頷いた。

「それと、質問ついでに最後にもう一つだけいいですか?」

「なんですか? 最後の最後で。結構グイグイきますね〜」

尾藤さんが笑いながらそう言うと、僕を待った。

「すみません。あの、尾藤さんにとってマイケル・ジャクソンのインパーソネーターとはなんでしょうか?」

「また難しいことを…」尾藤さんは、またちょっと困った表情を浮かべると、深く考え込んでしまった。

駅構内の放送が別の路線の終電を報せる。発車ベルの音が遠くでけたたましく鳴り響くたびに焦って掲示板を見てしまう。

改札口が徐々に慌ただしくなり、次から次に人を飲み込んでいく。

もうさすがに限界だろう。そろそろお別れの時間だ。

「あの、またでもいいですから! 時間もヤバいですし。すみません、長いこと引き止めて! また今度、この続きを話しましょう!」

僕はもうこれ以上は申し訳ないと思い、自分からそう言って切り上げようとした。すると、尾藤さんが唐突にこう言った。

「マイケルの景色を見せることができる人。それが、マイケル・ジャクソンのインパーソネーターなんじゃないですかね」

その瞬間、すべての点がそこに集約されて一つになったような気がした。

(マイケルの景色を見せることができる人)

そうだ。その通りだ。景色だ。

尾藤さんは言っていた。マイケルの見ている景色が見たくて始めたと。景色とは、マイケルのメッセージであり、表現であり、命だ。

どんなスタイルであっても、どんなやり方であっても、僕らはインパーソネーターの姿を通して、マイケルの命を見せてもらっているのだ。

マイケルの景色を、身体という絵筆を使ってステージというキャンバスに蘇らせる人たち。

それが、インパーソネーターだ。

長いことモヤモヤしていたものが今ようやく晴れた気がした。

「じゃ、もう行きますね!」

尾藤さんはそう言うと、こっちを振り返ることもなく、帰宅ラッシュで混雑するホームへと消えていった。あまりにもあっさりと、呆気なく。どの辺で見失ったのか、せめて最後まで見送りたかったのだが、その姿を目で追うことはできなかった。

この世には、生きている人の数だけドラマがある。表層に現れたものだけがすべてではない。その中で、歴史の深層に隠れた、飛び抜けた才能を持つ人たちがいる。

彼らの光は夜空ではなく、深海で輝く。

尾藤さんは砂浜の一粒のように駅の波打ち際に飲まれて消えていった。しかし彼のことを知ってしまった以上、僕は周りにいる人たちに声を大にして言いたい。

そこに、マイケル・ジャクソンがいますよ、と。

ただし、埼玉のね。

                【完】

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