阪神・淡路大震災を振り返る。愛する神戸のまちへ、当時深く関わった“語り部”たちが思いを語る

関西ウォーカー

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阪神・淡路大震災を振り返る関西ウォーカーの震災特集。25年前、さまざまな立場で震災を経験した人たちに話を聞いた。そこには、立ち上がっていく神戸を見続けたからこそ抱く、神戸への期待があった。<※情報は関西ウォーカー(2019年26号)より>

大切なまち・神戸をまた野球で熱狂させたい


「野球が人の役に立てる!その思いでこれからも」オリックス・ブルーウェーブチケット営業担当(当時の役職)の花木 聡さん(56)。

オリックス・ブルーウェーブチケット営業担当(当時の役職)の花木 聡さん(56)


チケット営業を担当後、2004年から5年間スカイマークスタジアム(現・ほっともっとフィールド神戸)の球場長。現在は事業本部兼広報部プロジェクトマネージャー。

震災を振り返るニュースなどで、4月1日の開幕戦に3万人の観客が集まったことが取り上げられます。確かにそれもすごかったのですが、私の中で最も記憶に残っているのは、その前のオープン戦です。選手も球団関係者も多くが被災する混乱のなか、まず公式戦を予定どおり神戸で開催することが決まり、“野球で市民を盛り上げよう!”“集まれる人だけで始めよう”と、シーズンインの準備を進めました。

そして迎えたオープン戦の日。本当に人が来てくれるのか、そもそも野球を観られる状況なのか…。お客さんが来なくても野球をやろう、誰もがそんな気持ちを抱えていたと思います。ところが球場には、たくさんの市民の姿。避難所から来ている人も多かったようですが、その姿を見た時の安堵感、そして大変ななかでも応援してくれる市民の姿に覚えた感動は今でも忘れられません。

当時のユニホームには「がんばろうKOBE」の文字。もともとあった「KOBE」の文字の上に「がんばろう」をはり付けて急遽制作


「なぜみんな来てくれたんやろ?」と思いながらも、お客さんの姿に励まされたのは選手や球団の方で、シーズンへ向けてのモチベーションが上がったのは間違いありません。あの時の熱は、私たちを突き動かしてくれました。その後、球団史上最速でマジックが点灯、優勝。あの年のチームは、強いと断言するには、正直言ってあまり自信がありませんでした。それでも優勝できたのは、この熱があったからこそでしょう。

【写真を見る】1995年のオリックス、パ・リーグ優勝。イチローなど選手たちが市民に優勝を報告した写真提供=共同通信社


1995年9月19日に西武球場でオリックスとなって初のパ・リーグ優勝。26日には当時のグリーンスタジアム神戸でイチロー(写真左前)など選手たちが市民に優勝を報告した。

野球にどんな力があるかはわかりません。しかしあの時、確かに市民と選手、球団がひとつになっていました。選手も球団も被災しています。だからこそ、野球を観ているひと時は辛いことを少しでも忘れられたら、と思っていたのではないでしょうか。復興へ進む神戸は毎日が大変なことの連続でした。だからこそ、何事もなかったかのように野球をやっていくことがなにより大切だったのかも知れません。野球ファンにとっては、野球がないことが“非日常”でもあったわけですから。

震災後3分の1の売場面積で再開していた大丸神戸店に、オリックス・ブルーウェーブの優勝を喜ぶメッセージが掲げられた


誰もが忘れられないあの一年を経て、今でも選手や球団は神戸を大切に思っています。特別なまちであることに変わりありません。今年は球団が神戸に本拠地を置いてから30年という記念すべき年。あの時のように、神戸の球場が沸き返るような熱いシーズンにしていきたいと思います。そして神戸の皆さんや野球ファンと共に、その熱狂を分かち合いたいですね。

京セラドーム2階の「Bs SQUARE」に1995年初優勝時のペナントが飾られている


美しく、活気あるまちに心を入れていく時代へ


「助け合いや思いやりが日常にある。この温かさが神戸の宝です」神戸新聞社 編集局社会部(当時の役職)の陳 友昱さん(50)。水上警察や神戸港関連の担当記者だったが、震災後しばらくはまちの人を取材し、声を記録し続けた。現在は編集局運動部長兼論説委員。

神戸新聞社 編集局社会部(当時の役職)の陳 友昱さん(50)


神戸市内の自宅から本社に向かい、目にしたのはガラスがすべて割れ、電気も電話も使えないほど大ダメージを受けた社屋。通常の業務ができない状況で市内各所へ向かい、1週間ほど現状を記録することに徹しました。話を聞きに向かった避難所で出合ったのは「あなたもなにも食べてないんでしょ、仕事しなきゃいけないだろうから」と、恐らく配給のおにぎりを2個私にくださったおばあちゃん。後日火災の現場に遭遇した時は、撮影させてもらう前に手伝おうと向かった私にまちの人が、「こういうことがあったという事実をあなたはしっかり記録してくれ」と、置いていたカメラを私に戻しながら言ってくれました。ほかにもどこへ行っても「どんどん話を聞いて、外へ発信してほしい」、まちの人からそう応援してもらえました。

1995年1月31日、神戸港へ震災後初めて、中国からの貨物が到着。動き始めた港の姿を陳さんは取材し、記事にした


一番大変な時期に助け合える、思いやれる。そして人々は強い。これが神戸なのだと今振り返って感じます。神戸に生まれ育って思うのは、このまちは人やにぎわいがコンパクトにまとまっている。それが人の結び付きやまちの強さにもなっているということ。

記者としてさまざまな事件を扱うなかで「震災は?」と考えると、“加害者”がいなかったということでした。感情をぶつける先がなく、25年を経た今も、被災された人は、震災をつい先日のように感じていることでしょう。それでも神戸はまちも人も、前へ進んでいます。そのなかでも人を思いやり、助け合える温かさが生き続ける“神戸らしさ”を大切にする場所であってほしい。今後、三宮の駅前が活性化し、にぎわうまちへなっていくことでしょう。だからこそ、まちへ心を入れていくことが重要になると。そして誰もがいいね、と言ってくれるまちでこれからもあってほしいですね。



コミュニケーションがまちの強さを作っていく


「震災の記憶と人々の強さが感じられるまちであってほしい」芦屋市役所建設部部長(当時の役職)の谷川三郎さん(83)。職員として最前線で震災対応に当たり、2か月間帰れない日々を送る。現在は「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」の語り部。

芦屋市役所建設部部長(当時の役職)の谷川三郎さん(83)


芦屋市は当時の助役が初動対応の陣頭指揮をとり、集まった職員で市民の対応に当たりました。消防署や警察と連携し対応していたのですが、私たちが多くの市民を助けられたのかと言うと、実際は2割もありませんでした。ほとんどは市民同士が助け合い、近所同士で救援されていたのです。

震災ではリーダーの大切さ、普段から地域の人同士の結び付きを強めておくことの大切さを学びました。同時に、人の結び付きの強さが神戸のまちの力なのだとも実感。たくさんの失敗もしましたし、それを含め、語り部として全国の自治体の方々へも当時のことを話しています。私の話を聞いた方々は、災害への備えについて実践する際の参考にされていると聞きます。つまりあの時の市民の力強い連携は、その後の災害における対応だけでなく、全国いろんな地域に、大いなる財産となって届いているのです。

谷川さんたちが当時一軒一軒目視確認で作成した被害状況地図。今でも谷川さんが大切に保管している


また、しばらくして全国から物資が届きましたが、市職員だけでは対応不可能なほどの量。そこで活躍したのが、大学生を中心としたボランティアの皆さんでした。他人になにかあれば駆けつける。人と人とが協力し合うことは、素晴らしいもの。それがまちの強さを作っていくと感じています。

神戸のまちは観光地として世界に誇れる場所です。と同時に、そこかしこで震災の痕跡を見て、学ぶこともできます。さらに大災害を乗り越えてきた人の輪も感じてもらえることでしょう。それらはすべて、これからも神戸のまちに息づいていくものだと思います。私たちから次の世代へ、そして未来へと、語り継ぐだけでなく誇りに思い続けていけるものがここにはたくさんあります。まちのすべての人がそれらを感じ、発信していける場所になっていってほしいですね。

いいまちでありたいと誰もが思える神戸に


「まちを愛する人々の思いを受け入れてくれる。それが神戸」神戸市消防署員(当時の役職)の野村 勝さん(81)。当直勤務の際に震災が発生、そのまま救助と消火活動に当たる。「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」の語り部のほか、野村防災研究所も主宰。

神戸市消防署員(当時の役職)の野村 勝さん(81)


災害対応に当たった消防署員として、また自宅のあった長田区での被災者として、多くの教訓を得ました。それを今、語り部として多くの人に伝えると共に、震災後から地元のまちづくりにかかわり、数年前まで長田区でまちづくり協議会の会長も務めていました。そこで意識したのは地域のコミュニティを再構築していくこと。震災時は、ちょうどコミュニティの結び付きが希薄になりかけていたころ。そして震災によって、コミュニティは崩壊しかけました。それを取り戻したい、誰もが暮らしやすいまちにしたい、そう強く感じたからです。

ポートアイランドから見た長田区方面の火災。太陽が隠れるほどの黒煙が上がった


まち中がパニック状態のなか、消防署員でもなにから手を付けていいかわからない状況が続きました。しばらくたってまちは復興に向けて動きだすわけですが、現状を見れば見るほど途方に暮れた、というのが正直なところです。しかし協議会を立ち上げ問題を解決していくなかで、人と人との結び付きの強さと大切さを再認識。これは財産であり、これからの神戸のまちにもしっかりと残していかなければなりません。震災の教訓は今後も生かしていく必要があります。災害はいつ、どこで起こるかわからないからです。神戸はそのことを、地域住民が理解するだけでなく世界中に発信できる数少ない場所です。

私が大切に思うのはまちを知ってもらうこと、地域のコミュニティがまちを維持していくこと。その原動力は、まちへの愛着にほかなりません。それが次の世代へ伝わっていくように、震災を経験した人、経験していない人、神戸を訪れる人など、すべての人が結び付きを強められるまちであってほしい。それは神戸の魅力となるでしょうし、まちという器にみんなで思いを入れていける場所であってほしいと願います。

編集部

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